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礼拝メッセージより
「前進」 2013年3月17日
聖書:フィリピの信徒への手紙 1章12-20節
フィリピ
この手紙は獄中からパウロが出したものだが、それがどこからかははっきりしない。送り主であるフィリピ教会は、「贈り物」をエパフロディトに託して、獄中のパウロに送った(4:18)。エパフロディトは単なる使者としての務めだけでなく、パウロの身の回りの世話をするはずであったらしい。しかしひん死の重病にになってしまった(2:26-27、30)。病気が治り次第、心配しているフィリピに彼を送り返す際に、パウロはこの手紙を託したらしい(2:28-29)
投獄
パウロが投獄されたという情報はフィリピの教会の人々にも衝撃を与えたと思われる。そしてそれは福音の敗北、後退と考える人も多くいたのだろう。そんな人達に向けての手紙でもあるようだ。
パウロは自分の投獄が福音の敗北でも後退でもなく、「かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と語っている。投獄されたことで兵衛全体にキリストのことが知られるようになり、投獄されたことで兄弟たちの多くの者が勇敢に御言葉を語るようになった、と言うのだ。
しかしキリストを宣べ伝えるのに、愛の動機からする者もいるが、自分の利益を求めて獄中のパウロをいっそう苦しめようという動機からキリストを告げ知らせている者もいるという。パウロをいっそう苦しめるためにキリストを告げ知らせるとはどういうことなんだろうか。それは分からないけれど、兎に角どちらにしてもキリストが告げ知らされているのであるから、それは喜ばしいことだ、と言うのだ。
福音
しかしどうしてキリストを告げ知らせないといけないのだろう。どうして伝道しないといけないのだろう。キリストを伝えるなんてできないよ、と思う。
聖書教育に、『伝道ってどんなイメージですか?私たちがイエスさまのことを一人また一人と伝えていく、困難なことがあってもそれを乗り越えながら僕たちが広めていく、というふうにイメージしていたかもしれません。でも、そのイメージはものの見事にひっくり返されました。「僕たちが福音を」ではなく「福音が僕たちを」包み込んで前進していたのです。だから、この私たちの存在その者が、なくてはならない福音の一部!福音は、今この瞬間も前進しています。私たちのため息なんてものともせず!』と書いてあった。
ある注解書には、「キリスト者は、たとえ自分がどのように信仰の弱い非力なものであっても(我々はそれ以外の何であろう!)、自分の存在を「福音」の「前進」と無関係の存在と考えたり、また自分の非力のゆに「福音」を「前進」せしめることが出来ないでいると考えて悲観したり絶望したり無力になってはならない。「福音」の「前進」と無関係のところにいるキリスト者というものはひとりもいないのである。キリスト者が何もしなくても「福音」はひとり「前進」するのである。」と書いてあった。
前進
困難なことを乗り越えながら福音を広めていかないといけないと思っている。というか困難を乗り越えていってないから広められていない、ように思っている。本当にどうなのだろうか。福音が僕たちを包み込んで前進しているのだろうか。
礼拝の人数は少ないし、会計も大変だし、なんだか自分の駄目さを突きつけられているようで、だからと言ってそれを乗り越えていく知恵も力も持ち合わせてはいないと思うし、そんな現実に打ちのめされている。
本当に福音はこんな自分を包み込んで前進していくのだろうか、前進しているのだろうか。溜め息ばかりついているけれど、溜め息をものともせず前進しているのだろうか。
本当にそうならば、溜め息なんてものともせず前進するのならば、いっぱい溜め息ついてもいいってことかな。いっぱい溜め息ついて、その溜め息ごと前進させてもらえばいいんだろうか。
パウロが投獄されたことによって福音は後退してしまったと、きっと多くの人が思っただろう。投獄されたという事実は後退を意味しているのかもしれない。しかしそこでパウロは投獄されたということだけにしばられてはいなかった。それだけに目を奪われてはいなかった。他の人達とは違うものを見ていたのだろうと思う。投獄されたことによってキリストを知る人がいるのだということが見えている。
自分は駄目だ、こんな自分では駄目だと自分を悲観し否定的に見てしまうことが多い。思うようにいかないことが重なるとお先真っ暗に思えてしまう。最近は駄目だなあと思うことが多くて、えらく朝早く目が覚めたりしている。そんな時は、それこそパウロが投獄されたことで、大変なことになってしまった、どうしよう、どうなるんだろう、とそのことにしか目が向いていない人と同じように、自分は駄目だ駄目だ、とそのことばかり考えている。今日も説教が出来ていないということもあるけれど、早い時間に目が覚めて、もう少し眠ろうと思ったけれど、結局眠れなかった。説教が全然できてなくても、二度寝三度寝を繰り返してなかなか起きれない時もあるけれど、今日は目が覚めて悲観的なことばかりが頭のなかを駆け巡って眠れなくなってしまった。
それで説教の準備をしていたら、福音は前進する、キリスト者が何をしなくても、僕たちを包み込んで前進する、なんてことが書いてあったわけだ。じゃあどうして礼拝の人数も献金も減るんだろうかなんて思いつつ、でもそのことにばかり捕らわれているから悲観的になっているのかもしれないなと思うようになった。目に見えるものは後退しているとしても、それでも福音は前進しているということなんだろうか。そう思うとちょっとホットしている。ちょっと元気が出てくるような気がする。
あがめられるように
パウロは、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」と言っている。キリストがあがめられることが第一なのだ、なんてどうして言えるのだろうか。それも捕らわれて投獄されている時になんでこんなこと言えるんだろうか。
パウロは何か違うものを見ているのだろうと思う。いつもキリストを見ているかのようだ。パウロにとっては自分の心の中にいつもキリストがいる、そしてそのことが喜びなんだろうなと思う。そしてその喜びを伝えられることがまたパウロ自身の喜びでもあるのだろう。
「自分の内に喜びを保つ人は、すべての時間がすばらしい。
でも、哀しく、孤独な魂を持つ人には楽しく、好ましい時間はない。」
(ロサリア・デ・カストロ/ガリシア人の小説家)
自分の心の中にキリストがいることが喜びであるならば、すべての時間がすばらしいものとなるに違いない。しかし心にキリストを迎え入れない時、あるいは心の中のキリストを見ない時、悲しく孤独な魂となってしまい、そうすると楽しく好ましい時間はなくなってしまうのだろうと思う。
悲観的な出来事や思うようにいかない事柄に目を奪われてしまい、キリストを見なくなっていませんか、キリストが見えなくなっていませんか、そう言われているような気がする。
しかしキリストの福音はそんなお前をも包み込んで前進するのだ、だから苦しい中にあっても、逆境の時でも、キリストを見なさい、キリストを伝えなさい、ただ悲観ばかりしていないで、縮こまらないで、自分の出来ることをしていきなさい、そう言われているような気がしている。