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礼拝メッセージより
「ひとりの人として」 2013年3月10日
聖書:フィレモンへの手紙 8-20節
フィレモン
多分コロサイの住人だった。この手紙の2節に「あなたの家にある教会に」と出てくることから、フィレモンは自分の家で集会を持っていたと思われる。
オネシモ
オネシモはそのフィレモンの奴隷であったらしい。この手紙の10節に、「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」と言われていることから、フィレモンのもとから逃亡した後、パウロと出会いクリスチャンとなったらしい。18節に負債の話しが出てくることから、フィレモンの財産を奪って、あるいは何か損害を与えて逃げ出したのかもしれない。
当時のローマ社会はまさに奴隷によって成り立っていると言えるほどに奴隷が多かったそうだ。そして罪を犯した逃亡奴隷が捕まったなら厳しい処罰が待っていて、処刑されることもあったそうだ。そんな処罰を恐れてオネシモは逃げたのかもしれない。
しかしその後パウロと出会い、回心したらしい。パウロは自分の元においておきたかったようだが、主人であるフィレモンの了解も取っていないこともあり、フィレモンのもとへ返そうとしている。それに際して書かれたのがこの手紙らしい。
コロサイの信徒への手紙4:9 「また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。」
オネシモがパウロをこんな気持ちにさせるような人間になったこと自体がすごい。フィレモンのもとにいたときに何をしたのか詳しいことは全然分からないけれど、パウロにわたしの子とか愛する兄弟と言わせるような人間になっていたようだ。
だからこそパウロは必死にフィレモンにお願いしているのだろう。でもこれは同じ神を信じる者同士なのだから受け入れろ、というようなことではなく、やっぱりオネシモのことを思っての願いのような気がする。
かつてフィレモンの下にいたときにしでかしたこと、詳しくはわからないけれど、そのためにフィレモンに迷惑をかけて逃げてしまったらしい。恐らくオネシモはそのことを悔いていたのだろう。心の傷となっていたんじゃないかと思う。だからフィレモンに迷惑をかけてきたということをパウロにも話したのだろう。
パウロはオネシモのそんな心の重荷を軽くしてやりたいという思いから、フィレモンに受け入れて欲しい、赦して欲しい、負債は自分のものとしてほしい、とお願いしているのだろうと思う。
脅迫
パウロは、「あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします」と、言葉はお願いしますと言っているけれど、実際の手紙の内容は脅迫に近いような気がする。しかも逃亡した奴隷であったのに、今度は奴隷としてではなく愛する兄弟として迎え入れてくれなんてことを言っている。
どれだけお気に入りなんだろうと思う。しかしパウロはキリストを信じる者だから受け入れろということよりも、今のオネシモをよく知って欲しい、よく見て欲しい、と言っているように思う。11節で「以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と書かれている。
以前は役に立たなかった、どころかあなたに迷惑をかけるような人間であった、けれども今は役に立つ人間になったのだ。どうか今のオネシモを見て欲しい、迷惑をかけた奴隷ということは事実だけれど、どうか今のオネシモを見て欲しい、昔のままではないのだ、今のオネシモをただ一人の人として見て欲しいということをパウロはお願いしているようだ。
当時の社会の中で奴隷に対して、しかも逃亡した奴隷に対してそんな見方をしてくれというのはかなり難しいお願いだったのではないかと思う。しかし教会はそんな身分に縛られることのない集まりなのだということをパウロは言いたいのだろう。
ガラテヤの信徒への手紙3章26-28節には、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と書かれている。
社会の中ではいろんな身分があっても、教会の中ではみな神の子なのだというわけだ。
バプテスト教会では牧師も一人の信徒であり偉いわけではない。誰もが一人の人として集められている。社会的にはいろんな人がいるけれども、教会ではやっぱりみんな一人の人なのだ。牧師だからとか、金持ちだからとか、社会的な地位が高いからとか、そんなことに捕らわれているとしたら、それは本来の教会の姿ではないのだろう。実際には世の中の先生が教会でもそのまま先生と呼ばれていたりすることも多いけれど。学校の先生とかお医者さんとか、教会でも先生呼ばわりするのは止めてあげた方がいいと思うけれどどうなんだろう。そもそも牧師を先生と呼ぶのもそろそろ止めにした方がいいんじゃないかとも思うけれど。
それは兎に角、神の下に集められた一人の人として、神の子とされた一人の人として、お互いを尊重し合っていく、大事にしあっていく、それがなければ教会は成り立たないのだと思う。
かつての経歴や業績、挫折や失敗、そういうものに捕らわれてはいけないということなんだろう。今神の子とされていること、今神に呼び集められているということ、そのことを喜ぶことが大事なのだと思う。