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礼拝メッセージより
「無資格」 2013年3月3日
聖書:コリントの信徒への手紙二 3章1-6節
免許
時々、どうやって牧師になるのか、どうやったらなれるのか、というような話しを聞かれることがある。神学校を卒業して牧師になるというのが一般的なので、卒業すれば牧師の資格を取れるのか、と聞かれる。教派によっていろいろあるみたいだけれど、うちの教派はそもそも牧師の資格というものがない、教会から牧師として招かれてそれを受けて初めてそこの教会の牧師となる、そこの教会の牧師であり、そこの教会を辞めれば牧師ではなくなる、牧師という資格があるわけではなく言わば無免許牧師だ、というような話しをする。
パウロは神より福音の宣教を託された者として自分のことを使徒と言っているが、イエスの12弟子ではなく、特にユダヤ人キリスト者たちからは使徒としての資格や権威に対して疑問視されていた。そして彼らはパウロを批判し、コリント教会をパウロから離れさせようとしていたようだ。
第二の手紙
そんな時に書かれたコリントの信徒への手紙二だが、この手紙はいくつかの手紙がまとめられたものらしい。どうも書かれた順番から言うと、2章14節が一番早い時期のものらしい。書かれた順番から言うと、2章14節〜7章4節、10章〜13章、1章〜2章13節、最後に7章5節以下という順番だそうだ。
推薦状
当時おもにエルサレム教会からの推薦状を携えたユダヤ人キリスト者たちが巡回伝道者のように諸教会を回っていたようだ、と聖書教育に書かれていた。イエスの直弟子であるペトロやイエスの弟であるヤコブたちのいるエルサレムの教会はやはり権威を持っていたらしい。そしてその教会の推薦状を持っているということになればコリントの教会としても安心であっただろう。しかしパウロはそんな人達がパウロが伝えたのとは違う別のイエスを伝えていると語っている。そんな危機感のある中でパウロはこの手紙を出したようだ。
そこでパウロは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか、そもそも推薦状が必要なのでしょうかと言う。
推薦状を持って巡回しているような人にとってその推薦状こそが大切なものだったのだろう。大切というか、それが拠り所だったんだろうと思う。周りの人達に対して自分を正当化するためのものでもあっただろうし、自分自身に対してはそれを持っていることで自分は間違ってはいないのだという安心感も持てたのではないかと思う。そんな目に見える後ろ盾があるということは安心できる材料ではあるのだろう。
しかしパウロにはそんな推薦状はなかったらしい。言わば無資格な伝道者だったわけだ。言わばそういう目に見える保障はなかったわけだ。しかしパウロはコリントの教会の人たちに対してあなたがた自身がわたしたちの推薦状だという。自分の伝えた福音を聞いて、自分の伝えたイエスを信じているあなたたちが今そこにいる、それが自分が使徒であるという推薦状なのだと言う。
呉に来てあまり間がない頃だったと思うけれど、何かの話しの時に、呉教会の人たちはもう浅海牧師の説教で養われているんだから、というようなことを言われたことがあった。養っているなんて意識は全然なかったのでびっくりした。その時のことを思い出した。そこで聞いてくれる人達がいるから牧師であって、いなかったら牧師ではいられない。牧師という資格を持っているから牧師であるのではなく、ここに教会があって聞いてくれる人がいるから牧師である。
パウロにとっても同じような状況なのではないかと思う。パウロもコリントの教会の人たちが自分の伝えた福音を聞いてくれたからこそ使徒だと言っているわけで、それ以外のなにものでもない。推薦状もないし、イエスと行動を共にした、という他の使徒たちにはある目に見える経歴も何もない。ただイエスに導かれ、イエスを伝えた、それだけだということだろう。ただ神から与えられた資格を持って福音を宣べ伝えている、目に見える保障、推薦状と言えるものはただあなた方自身しかないのだ、とコリントの教会の人たちに語りかける。
コリントの教会の人たちはパウロの話しも聞き、推薦状を持っている人達の話も聞いてきたのだろう。パウロを非難する話しを聞いて、やっぱり無資格のパウロは駄目だなと思うような人もいたのだろう。
しかしパウロはそんな人達に対しても語りかける。私たちは推薦状を必要とする繋がりなのか、推薦状があることで初めて安心してつきあえる、そんな間柄なのか、そんなことではないではないか、とパウロは語っているような気がする。
私たちは推薦状など必要ない、ただ神の導きによって出会わされた、そういう間柄ではないか、真剣にキリストを伝え、真剣にキリストを聞く、そんな間柄ではなかったのか、そう問いかけているようだ。
何が真実なのか真剣に考えて欲しい、どちらが正しいのか真剣に考えて欲しい、推薦状があるとかないとかというようなことで判断するのではなく、本当の福音とは何なのか真剣に考えて欲しい、そう懇願しているような気がする。
今まで私がどう語ってきたのか、あなたたちが今まで私の話しをどういう風に聞いてきたのか、どうかじっくりと思い出して欲しい、どうか真実を知って欲しい、そんなパウロの思いがあるような気がする。
神からの推薦状を、たとえばバプテスマを授けた人数とか、開拓伝道から教会を建てたというような目に見える功績に結びつけて考えてしまうことはないでしょうか、と聖書教育に書いてある。
教会が大きくなって会計も潤って、色んな行事もいっぱいする目に見える功績があれば安心できそうな気がする。そんなのが何もない中でやっていくというのは大変しんどい。功績が欲しいと思う。
でも本当にそこで一所懸命に神の声を語り、一所懸命に神の声を聞いているのか、それこそが大事なのだとパウロは言っているような気がする。
一所懸命に神の声を聞いているあなたたちがいるから私は使徒であると語っているのだ。推薦状があるから正しいとかないから正しくないとか、そんなことに左右されないで、これからも一所懸命に神の声を求めて欲しい、真実を見つけて欲しい、そう語っているような気がする。