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礼拝メッセージより
「使うと増える?」 2013年2月24日
聖書:マタイによる福音書 25章14-30節
タラントン
今日の聖書の中にタラントンというお金が出てくる。タラントンとはもともとは才能のこと。誰にも与えられている才能、能力。後にタレントと訳されるようになったそうだ。
今日のたとえにあるようにそのタラントンを私たちはそれぞれに与えられている。それぞれ違った額を預けられているように、私たちはそれぞれに違った賜物を与えられている。タラントンは与えられたもの、贈り物、あるいは預かりものといってもいいかもしれない。才能があるとかないとかということが実際にあるが、そして特別な才能のあるものがすぐれた人間であるように思うところがあるが、しかしそれは本当は神さまがたまたまその人にそれを預けたということなんだろう。
これはキリストにしているんです、と言うのかかっこいいけど本当にそんな風に思えるんだろうか。 そして神がどれほどのものを預けているかということであるが、1タラントンとは6000デナリオンと聖書の換算表に書いている。1デナリオンが1日分の給料ということで、6000日分の給料。1年に300日働いたとしても1タラントンは20年分の給料ということになる。2タラントンは40年分の給料、ということは一生働いた分の給料ということになる。5タラントンというと100年分の給料ということになる。
主人はそれを「少しのもの」なんて言っているが少しではないように思う。でも実際神からの賜物はそれほどのものだということかもしれない。そしてそれでも神はまだ少しでしかない、というのだ。
喜ぶ
今日のたとえの中で主人は、5タラントンを預かったものが5タラントンを儲けたことを一緒に喜んでくれという。2タラントンを預かったものが2タラントンを儲けた時にも喜んでくれという。しかし1タラントンを預かったものが、それを地の中に隠しておいたことに関しては、けしからんことだ、という。大ざっぱな内容はそういうことで、話しとしては単純だけれど、ではこの主人は儲かったことが嬉しくて儲けた僕には一緒に喜んでくれと言い、儲けがなかったから隠しておいた僕を怒ったのだろうか。
主人が金の亡者で、どれだけ増えたか、どれだけ減ったかということに目くじらを立てるということならば、減らないように大事にしまっておいたということならばそんなに怒られる筋合いでも無いという気がする。下手をして減らすよりは隠して減らないようにしていたんだから、そんなに怒らなくてもいいじゃないかと思う。
損失?
祈り会でみんなであーだこーだと言いながら聖書を一章ずつ読んでいる。今はコリントの信徒への手紙を読んでいるけれど、ここは分からないねえとか、なんでだろうとかいいながら読んでいる。そうやってみんなでゆっくり読んでいると、それはどういうこと?こういう時はどうなるの?なんて質問したくなることがよくある。
今日のたとえの話しでもイエスに聞きたいことが出てくる。このたとえの中には商売をして儲けた人が二人、商売をしなかった人が一人登場する。商売して損をした人の話しがどうして登場しないのだろうか。商売をして損失が出たとしたらこの主人はどう言うのか、是非聞きたい。損失が出たとしてもこの主人は喜んだのだろうか。それとも非難したのだろうか。
この箇所を見る度にそのことを思っていた。でも昨日ふと思い立った。損失の話しをしなかったのは、損失をするということがないからなのではないか、と。
このたとえは天の国のたとえだけれど、自分の賜物を使うことによって損失を被ることはない、そんなことはありえないということなんじゃないのか、だからイエスは損失が出るという話しをしなかったんじゃないか、なんて思った。
損をすることなんてないんだから心配しないで使ってほしい、増えるんだからそれぞれに与えられた賜物を用いて欲しい、と言われているんじゃないかと思ってきた。
心配
自分の賜物を用いると本当に増えるんだろうか、本当に役に立つのだろうか、なんて思う。賜物を用いるなんてかっこいいことじゃなくても、自分の存在自体役に立つなんてことあるんだろうか、自分がクリスチャンだとか牧師だということは、それを知られることは損失になるんじゃないのか、なんていつも心配している。
暫く教会に来てない人のこと会いに行こうかなんてたまには思うけれども、でも行ってつれなくされたらどうしようか、もう来ないで下さいと言われたらどうしようか、なんて考えてやっぱりやめようなんて思うことも多い。手紙でも出そうかと思いつつ、そんなことしてもそうそう礼拝に来てくれるわけでもないし、なんて思って結局なにもしないことが多い。
それは1タラントンを土に埋めてしまっているようなことかもしれないと思う。
イエスは、あなたの賜物を土に埋めてはいけない、あなた自身を土に埋めてはいけない、隠してはいけない、と言われているんじゃないかと思った。あなたの賜物を用いなさい、あなた自身を見せなさい、と言われているような気がしている。天の国ではそれで損をすることはない、だから心配しないで用いなさい、あなた自身を見せなさい、何の効果もないように見えるかもしれないし、何の訳にも立ってないように見えるかもしれないし、損失にしかなってないように見えるかもしれない、けれども天の国では、天の国の見方で見るならば、決して損失にはなっていないのだ、損失になることはないのだ、と言われているような気がしてきた。たとえ貴方が気付いていなくても、賜物を用いるほどに、貴方自身を見せるほどに、天の国では大きな儲けになっているんだ、私の目には大きな儲けなんだ、イエスはそう言いたかったんじゃないか、と思うようになってきた。
喜ぶ
確かに賜物は、自分一人が握りしめていても何に意味もないもののようだ。神から与えられたどんなにすぐれた才能も、それを誰かのために用いるのでなければそれは意味がない。誰かのために用いるからこそ喜びとなるのだ。
どんなに歌が上手くても、楽器をどんなにうまく演奏できても、ただ自分一人だけで歌っても演奏してもそれほど嬉しくはないだろう。こんなに上手になったというのはあるだろうが、それを聞いてくれる相手がいるからこそ、そしてそれを喜んでくれるからこそ自分の嬉しさは何倍にもなるように思う。
使う
お金は使うと減っていく、けれど賜物は使うことで増える、使わないと増えない、ということなんじゃないかな。そこに損失なんて、失敗なんてないのだから、私の目にはそんなことはないのだから、だから心配しないで賜物を生かしなさい、貴方自身を見せなさい、それは私の喜びでもあるのだ、イエスはそう言われているのではないか。