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礼拝メッセージより
「恵まれて生きる」 2013年2月17日
聖書:マタイによる福音書 20章1-16節
報酬
今日の聖書はやっぱり変な話しだと思う。
普通働いた報酬ってのは、働いた分に応じてということが考えられている。働いた量か、あるいは働いた時間に換算されることがほとんどだ。当時は夜明け6時位からから日暮れの6時位まで12時間位働くというのが不通だったようだ。それだけ働いて一日分の日当を貰うということになるわけだ。
働いた時間に応じて報酬を貰えるというのが当たり前かというと、必ずしも働いた時間と報酬とが関係するとは限らない。1年に何億も稼ぐ人もいるが、その人がサラリーマンの何十倍も何百倍もの量の働きをしているかというと、そうわけではない。同じ仕事をしていても正社員とパートの人だと賃金が違ってたりする。仕事の量と報酬が必ずしも比例するわけではない。
恵み
実は、お金に限らず、私たちに必要なもので私たちに与えられるものっていうのは、私たちの働きに応じて与えられるとは限らない。むしろそうではないことが多い。私たちは空気がなければ生きていけないけれども、その空気は私たちが何かをしたから与えられている訳ではない。何かの報酬として、あるいは、何か私たちがいいことをしたからということで、与えられるというものではない。
私たちの命そのものも、それは結局は与えられたものだ。今こうして生きていられるのも、私たちがそれなりのことをしたとか、それなりのものであったから生きながらえているというわけではない。ほとんど、たまたま生かされているに過ぎない。自分がそれなりのことをした報酬として生かされているわけではない。
生きていること自体そうやって与えられた中で生きている。働いた報酬として生きているのではなく、恵みとして生かされている。けれども、いつしか私たちは自分の働きに応じて何もかも与えられるべきだ、それが当然だと思っている節がある。
1デナリオン
聖書のイエスのたとえでは、主人が夜明けに一日1デナリオンの約束で労働者を雇った。1デナリオンは一日の賃金。一日を生きていくための賃金。今の日本で言えば1万円という位だろうか、それはまっとうな報酬である。
主人は9時と12時と3時にも同じように労働者を雇い、5時からもまた雇った。9時の時には1デナリオンとは言わずふさわしい賃金を払ってやろうと言っている。その後は賃金の話しは出てこないけれど同じように言ったということなんだろう。
そして夕方になって報酬を支払う時が来ると、5時に雇われた人から順番に支払われた。その人に1デナリオン支払ったという。5時から働いて一日分の給料を支払ったというのだ。
3時の人も12時の人も9時の人もきっと1デナリオンずつ支払ったのだろう。そして夜明けから働いた人にも支払ったが、やっぱり1デナリオンだったというのだ。そこでその人たちが、朝から暑い中を働いたのに、夕方からしか働かなかった奴らとどうして同じ給料なのか、と文句を言ったというのだ。
そりゃそうだろう、という気がする。5時から働いて1デナリオンなら、時給が1デナリオンということになって夜明けからだと12デナリオンくらいになるか、そこまでいかなくても5時からの奴と同じってことはないだろうと思うだろう。働いた時間に比例して報酬が支払われるとしたらそうなるのが普通である。時間に応じて報酬が増えるというのがこの世の習わしである。
しかし天の国ではそうではない、とイエスはいうのだ。天の国では、その日雇われた者は何時に雇われてもその日一日の給料が貰えるというのだ。その日生きていくだけのものが与えられるというのだ。そして後にいる者が先になり、先にいる者が後になる、と言うのだ。
先、後
天国泥棒というような言葉があるそうだ。
歳を取るまでは勝手気ままに生きていて、死ぬ直前に天国行きの切符を貰うのが一番得策だ、というような考え方のことらしい。神を信じるということが、天国に行くために神の命令に従う面倒な生き方をしなければいけないということならば、死ぬ間際に信じることが一番面倒がないということになる。
神を信じて生きるということが、死んだ後に天国に行くために戒めを守って本当はしたいことも我慢して生きることであるならば、確かに出来るだけ好きなことをして死ぬ間際に信じますと言って天国行きの切符を手に入れればそれが一番うまい生き方かもしれない。神を信じるということが難行苦行、ただ辛いばかり、ただ苦しいばかり、苦しみに耐えることばかり、というのであれば、できるだけ信じないでいた方がいいということになる。それでは地獄に行ってしまうかもしれない、だから死ぬ間際に信じるというのが一番効率的な生き方ということになる。
しかしイエスのいう天の国はそういうものではないようだ。天の国は私たちのただ中にある。神と出会うところが天国である。自分の居場所を見つけられること、自分がいてもいいのだという場所を与えられること、それが救いであり、そこが天の国なのだと思う。自分の仕事を見つけられること、自分のすべきことを与えられること、それが救いなのだ。やるべきことを与えられず、見つけられないということは辛いことだ。自分の居場所が定まらない、見つけられないことは苦しいことだ。
その日一日の賃金の当てのないままに時間を過ごしていくことの方が、暑い中とはいえ、賃金を約束された上で働くよりもきっと辛いことだろう。その日の仕事がないことでその日生きていくためのお金を得られなくなってしまうわけだ。今日は全く収入がないのかという不安の中で夕方までいるということは大変なことだっただろう。夜明けに雇われて、確かに肉体的には大変だろうけれど、その日の収入の心配をすることなく1日を過ごすのとどちらが大変なのか。
天の国とは、その日の賃金を保障されて、安心して働くようなものなのだ。安心して生きていくところなのだ。朝から安心していられるか、夕方になって安心するのか、それは人それぞれということになる、しかしどちらにしても一日の賃金は保障され支払われるということだ。天の国とはそういうところであるというのだ。
神のもの
賃金をいくら支払おうとそれは支払う側の問題である。主人は、賃金は自分のものであり、自分のものを自分のしたいようにしているだけだ、という。気前よく与えることをどうしてねたむのか、という。
私たちが報酬だと思っているものは、実は神からの恵みなのかもしれない。神が今日一日の必要なものを与えてくれている、その中で自分の働きをしている、それが私たちの実体なのかもしれない。自分が働いたら報酬を貰える、今の社会の賃金は確かにそんな風に貰えるが、私たちが生きる上で必要なものは、私たちが働いたから貰えるのではなくて、働く以前から私たちに与えられている、働きがどうであれそれ以前に与えられている、つまり恵みなのではないか。神の恵みは、本来の働きに対する報酬なんかに比べものにならない大きなものなんだろうと思う。人の報酬に文句を言うのは、自分が100円分働いたのに対して1万円もらっておきながら、あいつは10円分しか働いてないのにどうして1万円貰えるのかと文句を言っているようなものかもしれない。
私たちは神から生きることを支えられている、その上で私たちはそれぞれの務めを行っているということなのだと思う。私たちは実はすべて神の恵みの中に生かされているということなのだ。そしてそこが天の国なのだ。
恵み
私たちは今いろんなものを与えられていることの不思議を考えなければいけないのかもしれないと思う。そして今与えられているものにもっともっと感謝しないといけないのかもしれない。神が私たちに必要なものを備えてくださっていることを感謝していきたいと思う。そしてそうしてくれているから、安心して自分の務めを果たしていける。安心して献げることもできる。
神を信じるということは、地獄に行かないために難行苦行をしてでも神の掟をただ守って生きるということではなく、神に守られていることを知って安心して生きるということだ。そして神から託された務めを果たすことだ。神が守ってくれるからただ何もかもしてくれることを待っているというのではない。何もしないことはつまらないことだろう。自分がすべき務めを持っているということは嬉しいことだ。喜びは自分がそんな務めを果たすことができるということで得られるのだろう。
私たちの務めはなんなのだろうか。この福音を、神の言葉を伝えていくこと、そしてここにみんなが安心して集まれる教会を作っていき、そしてみんなを招いていくことだ。
そんな務めを託されている、それは感謝すべきことなのかもしれないと思う。自分に託されている務めを果たしくところにきっと喜びがあるのだろう。