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礼拝メッセージより
「さあ」 2013年2月10日
聖書:マタイによる福音書 13章1-17節
汚名挽回
よく間違ってそう言って、汚名を挽回してどうするんだと言われるそうだ。しかし自分に自信がなくなってくると汚名を返上しないで挽回してしまうことになりがちだ。目に見える成果が出てないような時、こんなことをしていてもだめじゃないかと思ってやめてしまったり、おかしなことをやってしまって、余計におかしくなるなんてこともよくある。
昔、テレビのBS放送を見ようとしてパラボラアンテナを買ってきて自分でつけようとしたことがあった。2階の手すりにアンテナをつけて自分で方角とか高さとかを合わせてケーブルも繋いでみたけれど、どういうわけか映らなかった。いろいろやってみたけれど駄目で、結局電気屋さんに来てもらってつけた。そうするとどうやら最後のビデオにつなぐコネクターが原因だったらしくて、コネクターの配線を変えるだけでよかったらしかった。使ったことのないコネクターを繋げてたのがあだになったらしかった。
初めてそんなことをしたのもあって、最初から最後まで大丈夫だろうかという心配をしながらだったので、映らないとなった時に、どうしようという思いが大きくて、どこがまずいのか少しずつチェックするような余裕もなくなってしまって、違うコネクターを繋げていたらよかったのに、結局出張料何千円かを支払うことになった。
自信をもって落ち着いているときにはスムースにいくことも、自信をなくして落ち着きもなくなると、普段出来ていることも出来なくなってしまい、汚名挽回してしまうことも多いように思う。
礼拝の人数が減ってくるとか、献金が少なくなるとか、結構しんどい気持ちだ。だんだんと自信もなくなるし、日曜日が来るのがしんどいなと思う。
種を蒔く人
今日の箇所は「種を蒔く人」のたとえ、のところだ。話しの内容自体は単純で、種を蒔く人が種まきをすると、ある種は道端に、ある種は石だらけの土の少ない所に、ある種は茨の間に、ある種は良い土地に落ちた、ということだ。そして道端や石だらけで土の少ない所や茨に落ちた種は実を結ばなかったけれど、良い土地に落ちた種は百倍、六十倍、三十倍の実を結んだという話しだ。
日本だと耕した畑に少しずつ丁寧に種を蒔いて、道端や石だらけの土地に蒔いたりしないという印象があるけれど、パレスチナではまず種をパラッと蒔いてから土を掘り返すらしくて、この話しのようにいろんなところに種が蒔かれることがあるそうだ。
たとえ
このたとえがどういう意味なのかということは、13章18節からのところに説明が出てくる。
種を蒔く人は神の言葉を蒔く。
1 道端とは、御国の言葉を聞いても悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。
2 石だらけの土地とは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるけれど、自分には根がないので、艱難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまう人。
3 茨の中とは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人。
4 良い土地とは、御言葉を聞いて悟り、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ人。
さあ
ということで、あんたらはどの土地なのか、と問われていて、自分は全然実を結ばない駄目な土地のようなものだと言われているような気になってしまう。でもイエスはそんなことを言いたかったのだろうか。
ネットで説教を読んでいると面白いことを言っている牧師がいた。
イエスがこの譬えを語り始めるときに、新共同訳では「種を蒔く人が種蒔きに出ていった。」と訳されているが、口語訳では、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。」と訳されている。口語訳には、見よ、という言葉が入っていて、イエスは種を蒔いている人のことを見なさいと言っている、とその牧師は書いていた。
ギリシャ語の原文を見ると、確かに「ほら」とか「さあ」という言葉が入っていた。さあ種まきを見なさい、という雰囲気なんだろう。種まきが種を蒔くことをよく見なさいということなんだろうと思う。
種まきが種を蒔くといろんな土地に落ちる。確かに実を結ばない土地に落ちるものもある。しかし良い土地に落ちた種は多くの実を結ぶのだ、ということを見なさい、と言われているんだろうと思う。
たとえの意味から言うと、御言葉を聞いても悟らない人も確かにいる、けれども御言葉を悟る人は多くの実を結ぶのだ、ということだ。多くの実を結ぶ、そんな種を、そんな御言葉をあなたたちは蒔きなさい、蒔き続けなさい、ということを言われているんじゃないかという気がしてきた。
一体いつになったら実を結ぶのかということは分からない。実を結ぶということ自体がどういうことなのかも定かではない。教会が大きくなることかもしれないけれど、それよりもその御言葉を聞くことで喜び、癒され、慰められ、安心する、そんなことなんだろうと思う。
そのために種を蒔き続けなさい、今はまだ実を結んでいなくても心配しないで種を蒔きなさいと言われているんじゃないかと思う。
昔聞いた話しだけれど、生涯に導いたのが青年一人だけだったという牧師がいたそうで、その牧師の働きは失敗だったという人がいた。でもその牧師が導いた一人の青年がその後牧師となって大勢の人を導いた。はたして一人だけ導いた牧師の働きは失敗だったのか、なんて話しだったように記憶している。
働きが失敗なのか成功なのか、それは難しい。しかし兎に角種を蒔き続けるようにとイエスのことを伝え続けるように、と言われているのだと思う。その種は多くの実を結ぶ力のある種なのだから、自信をもって蒔き続けなさいと言われているのではないか。