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礼拝メッセージより
「みこころって?」 2013年2月3日
聖書:マタイによる福音書 7章21-23節
価値
最近テレビでは体罰の問題をよく取り上げている。でも何も悪いことをしてないんだから罰をうけているわけでもなくて、ただの暴力なのだと言う人がいてそうだなと思った。体罰とかいじめとか、あるいは躾とか、殴る側には都合の良い言葉だなと思う。
たまたまそんな話しの中で、自分に価値があると思うか、というアンケートをとったという話しをしていて、それによると自分に価値があると思う日本人は、外国人に比べてダントツに比率が低いという話しをしていた。
自分のことを考えても、小さい頃から褒められたことよりも、批判されたり非難されたり責められたりしたことの方が圧倒的に多かったように思う。だからこの自分では駄目なんだ、というのが自分の基盤というか基礎になっているような気がする。日本人にはそんな人が多くて、お互いに責め合って、みんなが自分に価値がないと思うようになっているんじゃないかという気がしている。
主よ、主よ
イエスの言う、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」というのはまだ分かる気もする。口先だけで主よ主よって言ったって行いが伴わなけりゃいかんだろうとは思う。ところが次のところでは、御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を行ったではありませんか、と言う者たちのことを全然知らない、不法を働く者ども、わたしから離れ去れ、とイエスは言うのだ。
これは一体どういうことなんだ。預言し悪霊を追い出し奇跡を行うことはいいことじゃないのか。それも神の御名によって行っているのに、どうしてそれが不法を働くことなのか。どうしてそれが天の父の御心じゃないというのか。
御心
では天の父の御心を行うということはどういうことなのか。何をする事が神の御心を行うことになるのだろうか。
マタイによる福音書の22章の中にこんなことが書かれている。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
神を愛することと、隣人を愛することは同じように重要なのだ。神に向かう時にはへりくだり、私は罪人です、といいながら隣人に対して横柄にしているとしたら、それは神を信じていることにはならないのだ。
さらにマタイによる福音書の25章では
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
と言って永遠の命にあずかると書かれていて、それに続いて最も小さな者の一人にしなかったのは永遠の刑罰を受ける、なんてことが書かれている。
最も小さい者の一人にしたのはイエスにしたことと同じだと言われているが、それをした人はイエスに対してそんないいことをしたという自覚がまるでない。神に対してしたことだ、イエスに対してしたことだ、なんて思っていない。神を愛することと隣人を愛することは同じように重要だ、と言われていたけれど、ここでは隣人を愛することこそが神を愛することである、それは別々のことではなくて一つのことであると言っているようだ。
御心ということでイザヤ書を思い出す。
1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。
1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を
1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
神の御心を行うということは、ただ献げ物をし、祭りを守り、手を広げて祈るということではない、ようだ。孤児の権利を守らず、やもめの訴えを弁護しないでおいて、つまり弱い立場の者たちのことを顧みることをしないでおいてただいくら一生懸命に献げ物をし、祈ったところでそんなことを神は聞かれないと言っている。
ただただ神を見上げる、ということはどうやら神の御心ではないようだ。今日の聖書では、主よ主よと言い、御名によって預言し悪霊を追い出し奇跡を行うという、すごいことをしましたとひたすら神の方を向いていて、自分のしてきた行為を自慢しているように見える。だからイエスは、あなたたちのことは全然知らない、不法を働く者ども、と言ったのだろう。
そうすると天の父の御心とは、私たちの隣人を愛すること、最も小さな隣人を大切にすることなのだろう。しかも誰にも自慢できるような大それたご立派なことをすることではなく、自分がしたことを覚えてもいないようなこと、自分にとってはそれは取るに足らないような、その気になればいつでもできるような、誰にでも出来るようなことをすることなんだろう。
自分にはあれもできない、これもできない、という風に、私たちは自分にできないことばかり数えて、やっぱりこんな自分は駄目なのだと思うことが多いんじゃないかと思う。でも自分が当たり前にできること、全然自慢にも何もならないようなことで隣人を大事にすること、それこそが天の父の御心を行うことなんだと思う。
自分で自分を駄目だと思うことが多いけれど、イエスはそんなことはない、お前は駄目じゃない、お前がしてくれたことは私にしてくれたことなんだ、お前は私にいっぱいしてくれているじゃないかと言ってくれているんじゃないかと思う。
自分を責めて卑下して、こんなことしたって意味がないなんて思って、当たり前に出来ることさえも出来なくなってしまうことはとても勿体ないことだと思う。
隣人のために自分に出来ることをやっていきなさい、自分に出来ることで隣人を大切にしていきなさい、あなたが今やっていることはとても大切なことなのだ、とても価値のあることなのだ、それこそが天の父の御心を行うことなんだ、だからそれを続けなさい、と言われているのではないかと思う。