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礼拝メッセージより
「もう十分だ」 2013年1月27日
聖書:マタイによる福音書 6章25-34節
心配
僕の人生の大半は心配で出来ているんじゃないかと思う。思えばいろんなことを心配してきた。
小学校の頃から日曜日の夜が嫌いだった。正確には夕方から夜が嫌いだった。明日からまたまた学校だ、宿題しなきゃと思うと午後から段々と憂うつになってきて、夜になってもまだ何もしてないという暗い気持ちでやっと宿題をして、という繰り返しだった。土曜日は半ドンで昼過ぎに学校から帰ってきていたけれど、土曜日の内に宿題を済ませたら楽しい日曜日を過ごせるんじゃないかといつも思っていたけれど、一度だけそれを実行できたという記憶がある。日曜日に親戚だったのだろうか、近くのミカン畑に収穫の手伝いをしにいき、土曜日の内に宿題を済ませると日曜日はこんなに気楽なんだと思ったことを覚えている。ところが次の週からはやっぱり土曜日には何もしなくなっていた。その癖は未だに直らなくて、今でも礼拝の間際まで説教ができないで、来週こそは早く準備しようと礼拝の度に思いながら、ほとんど出来た試しがない。
会社に入ってからは宿題はなくなったけれど、月曜日からの仕事のことを考えると日曜日の午後からだんだん落ち込んできて、日曜の夜はいつも憂うつだった。土曜、日曜と続けて休みの時も多くて、土曜日はバイクで少し遠くへ行ったりしたけれど、日曜日は礼拝に行っても大体暗くなる前には帰ってきて、何をするわけでもなく会社の寮ですごしていた。
その頃たまたま聞いていてラジオであるアナウンサーが、休みの日には次の日が仕事でも、その日はいつも夜遅くまで目一杯遊んで楽しんでいる、なんて話しをしていた。それを聞いて本当にびっくりしてしまった。次の日仕事があるのにどうして夜遅くまで楽しめるのか、そんな人が世の中にいるのか、と信じられないような気持ちだった。
月曜日の夜からはそんなことはないけれど、休みが終わる日はいつもそんな感じだった。
気になることがあるとずっと先のことまで心配ばかりしている。まるでそば屋さんの出前のような感じ。そば屋さんがそばのざるを何段も肩にかけて自転車に乗ってるというかっこうを昔はテレビで見てたけど、明日の心配と、明後日の心配と、明明後日の心配と、その次の日の心配と、何日分もの心配を担いで歩いている感じ。一日分の心配なら大したことなくても、何日分もの心配になると毎日しんどい。
そして、その心配事を人に話して聴いてもらったら、楽になるのかもしれないけれど、なかなか話せない。なぜなのかよく分からないけど、自分の失敗や弱点を人に話すのが苦手だ。自分の自慢を話すのはいいけれど、自分の心配事や自分の失敗したことや悩み事を話すのが下手だ。そんな弱みを見せてはいけないような気になっている。自分の駄目さを人に知られるのが怖いんだろうなと思う。それで一人で悶々といろんなことを心配し悩んでいる。
自分で生きる?
イエスは空の鳥をよく見なさい、と言った。何で空の鳥をよく見ろと言ったかというと、鳥は種を蒔かないし刈り入れもしないし、それを蓄えておくわけでもない、なのに神は養ってくれているじゃないか、と言う。
神はあなたたちのことを大事に大事に思っているんだから、「あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」「ましてあなたがたにはなおさらのことではないか」と言われている。
また明日は炉に投げ込まれる野の草も、神は綺麗に装ってくれているじゃないか、だからあなたたちのことはなおさらだ、と言う。
だから悩むのは今日のことだけでいい。明日のことまで悩みなさんなとイエスは言う。
悩むことにエネルギーを費やしてしまうことで人間は疲れ切ってしまうこともある。悩みに押しつぶされてしまうことも。心配で心配で夜も眠れないこともある。ずっと先のことが心配で何日も前から眠れないなんてこともある。
そんな私たちにイエスは語り掛けているのではないか、神があなたのことを心配しているのだ、あなたたちの心配が届かないところまで神は心配していて、そのための備えをしているのだ、神が心配して神が準備しておられる、と言われている。
確かに悩みは尽きない。いろんな悩みの種がいっぱいある。けれどもイエスは、今日は今日の分だけを悩めばいい、今日の分だけで十分だ、と言っている。
あなたは一人じゃないんだ、神があなたのことを心配しているんだから、あなたのことを大切に思っているんだから、だから明日の悩みは明日になってから悩めばいい。あなたはもう十分に悩んできた、でももうそんなに悩まなくてもいい、悩みはその日の分だけで十分だ、そう言っているような気がする。
大学の時の友だちが水越恵子という歌手を好きだった。彼が「ほほにキスして」という唄をよく聞いていて、この人のことを知った。too far awayという曲も歌っていた。
もうずいぶん前になるけれど、本屋に言ったときにその水越恵子さんの本を見かけてぱらぱらとめくった。あとでネットで調べると、彼女は結婚して子どもを産み、その子がダウン症だった。その後離婚して一人で子育てをしている、と書いてあった。
記憶が曖昧なのではっきりとは覚えていないけれど、彼女が子育てで苦労して悩んでいた頃、どこかに公演に行った時だったかな、たまたま座ったベンチに誰かが文章を書いていた。それが聖書の言葉で、「だから、あすのことは思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」だったと記憶している。彼女はそれが誰の言葉かも知らなかったみたいだけど、それを読んですごく楽になったと書いていた。
悩みの種がなくなれば悩まなくてもいいし、その種をなくして欲しいと願い祈る。でもなかなか悩みの種はなくなってはくれない。イエスに思い悩むな、と言われたからといっても、それで悩みの種がなくなるわけではない。
けれど、イエスはそう言っている。悩んじゃいけないという命令ではないだろう。あなたがさんざん悩んでいることはよく知っている、もうそれで十分だ、それ以上悩んではいけない、そう言われているような気がする。
あなたのことが大事だから、あなたのことが心配だから、だから明日のことまで悩まなくていい、悩むのは今日のことだけで十分だ、と言われているのだろう。
悩みに押しつぶされそうな、倒れてしまいそうな私たちのことをそれほどに分かってくれているからこそ、そんな私たちを丸ごと受け止めてくれているからこそ、イエスはそう言ってくれているのだろう。
何よりもまず神の国と神の義を求めなさい、と言われている。神の国と神の義とはなんなのかよくわからない。でも神が私たちがどれほど悩み苦しんでいるかということをよく知ってくれていること、そしてそんな私たちを大事に思ってくれているということ、そんな私たちのことを神自身が心配してくれているということ、そのことを知りなさい、知っていて欲しいとイエスは言われているんじゃないだろうか。