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礼拝メッセージより
「なのだ」 2013年1月13日
聖書:マタイによる福音書 5章13-16節
塩
あなたがたは地の塩である、なんて言う。塩というと真っ先に思いつくのは料理に使う塩だ。塩がないとすると料理はどうなるのか、あまり詳しくはわからないけれど料理は成り立つんだろうか。塩気のないにぎりめしはあまりうまくないというように、塩気のない料理はおいしくないんだろうと思う。だから塩は料理には欠かせない物なんだろうと思う。でも塩だけを食べることはほとんどない。他の材料をおいしくするために使うものだ。そして少しの量で多くの材料をおいしくしてしまう。
あるいはまた塩は物を腐らなくさせる力もある。塩漬けにしておくと長く持たせることができる。
「だが塩に塩気がなくなればその塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と続く。
今の塩に塩気がなくなるなんてことはあまり考えられない。しかし当時の塩は死海沿岸やシリアの荒れ地で取れる不純物を含む岩塩のことである。岩塩には不純物が多く、空気中の湿気によって融けてしまって使い物にならなくなったりしていたそうだ。そうなるとイエスがいうように役に立たなくなり捨てられるだけだったようだ。
塩気がなくなると役に立たなくなってしまうけれども、あなたがたは大切な大事な地の塩だというのだ。地の塩になれでもなく、なるだろうでもなく、地の塩であると言い切っている。あなたがたはこの地上での大切な塩なのだ、と言うのだ。
光
続いてイエスは、あなたがたは世の光である、とも言われている。山の上にある町は隠れることができないとか、ともし火を升の下に置く物はいなくて、燭台の上に置くなんて当たり前のことを言っている。光は物を照らすものなんだから、照らさないと意味はない。そしてあなたがたの光を人々に輝かせろというわけだ。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるために、あなたがたの光を輝かせろと言うわけだ。
立派な行い
この立派な行いとは何なのか。立派な行いなんて出来やしない、と思う。立派なことばかりしてられない、と思う。
立派な行いとは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従うことだ、と言っている人がいた。では自分の十字架を背負うとはどういうことなのか。それは多分、自分の弱さを背負っていく、弱さを自覚していくということじゃないかと思う。自分は間違いを犯し、罪を犯し、人を傷つけて、人に迷惑をかけて生きている、そんな人間なんだということを自覚して、そういう人間なんだという上に立って生きていくということなんじゃないかと思う。
でも自分の駄目さを自分で認めるってのはとても難しいことだろうと思う。僕自身も自分が間違っていた、自分の方が悪かったなんてなかなか認められない。口ではそう言ってても内心では、本当はあいつの所為なんだとか、自分が悪かったと言っといた方がかっこいい、なんて思っていたりする。本当に自分が悪いと思うときはうちのめされてそこからいなくなりたいと思う。
でも消え去りたいと思うような気持ちを持ちつつ生きていくことが、自分の十字架を背負って生きていくということなんじゃないかと思う。
そんな自分をも愛している、大切だと言ってくれている、その神の声を聞いて生きていく、それがイエスに従うということなんじゃないかと思う。
だから立派な行いとは、抜かりのない、間違いのない行いのことではなく、また誰にも真似できないすごいことをすることでもなく、こんな自分を憐れみ、愛してくれている神を見上げ、神に生かされていることを感謝して生きていくことなんだろうと思う。
なのだ
イエスがこの時語ったあなたがたとは、弟子たちだった。弟子たちはイエスについてはきていたけれど、イエスのことあまりよく分かってはいなかった。おかしな事をいって叱られたりすることもあった。そしてイエスの十字架を前にして逃げ出した、そんな弟子たちだった。
イエスはこんな弟子たちに対して「あなたがたは地の塩である」また「あなたがたは世の光である」という。地の塩になれでもない、世の光になれでもない。もうすでに地の塩であり、世の光であるというのだ。
地の塩になれ、世の光になれと言われたのであれば、今から自分を鍛えて訓練しなければいけないということになるのだろう。しかしすでにそうなのだと言われたらどうしたらいいのだろうか。
イエスはよくそういう言い方をしているように思う。あなたがたは神の子とされているのだ、愛されているのだ、という風に言っている。神の子とされるようになりなさいでもなく、愛されるようになりなさいでもない。もうすでに神の子なのだ、すでに愛されているのだと言う。
こんな自分が神の子になんかなれる訳がないとか、こんな自分が愛される訳がない、と思うことが多いのではないか。要するに自分では自分のことが駄目だと思っていることが多いのではないか。しかしそんな自分を神は、駄目じゃない、お前は神の子なのだ、愛されているのだ、と言っているというわけだ。
自分の基準と神の基準が全く違うということだ。そんな時にどうするのか、どっちの基準を採用するのかということになる。
あなたたちは地の塩なのだ、世の光なのだと言われている。もうすでにそうなのだと言われている。まずはそれを受けとめることだ。それを受け入れることだ。自分自身がそれを認めることだ。
年末だったかな、特別番組ばかりで面白いテレビがないと言いながら、たまたまあるドキュメンタリーを見た。足が不自由で杖をつかって歩いていて、少し子供っぽい話し方をしていて、集中するのも難しいような障害を持った女性のピアニストの話だった。その彼女が自分のコンサートを終えた時に、ピアノの先生と話しをしていた。その時に、今まで自分は認めてもらえなかった、音楽の勉強をしたくて音楽大学に入ったときにも、自分の音楽を認めてもらなかった、でも先生は私を認めてくれた、私の音楽も認めてくれた、だから今まで頑張ってこれた、というようなことを涙ながらに語っていた。
あなたたちは地の塩なのだ、世の光なのだ、もうすでにそうなのだとイエスは言う。イエスは私たちを、私たちそのものを認めているということだ。私たちは自分で自分を認めないことが多いけれど、イエスは認めているのだ。間違いも失敗も挫折も、あるいは傲慢も自惚れも持っている私たちだ。しかしそんなものもひっくるめて神は私たちを認めてくれている。
私たちができることはそのことを喜び感謝することじゃないかと思う。その喜びと感謝があれば次の一歩を踏み出すことができるに違いないと思う。