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礼拝メッセージより
「目の前に」 2013年1月6日
聖書:マタイによる福音書 4章1-11節
書いてある
昔ある牧師が、マタイによる福音書4章4節の話しを楽しそうにしていたのを覚えている。その時は口語訳聖書で、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある。」。これはマタイの4章4節でしかも新約聖書の4ページだと。教会の聖書は新共同訳聖書の最初に出た聖書で、これだと4章4節は5ページになるけれど、新共同訳聖書でも後から出た聖書では1ページの分量が変わったみたいで、やっぱり4ページになっている。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』、と書いてある」の、と書いてある、というところをやたら強調していたように記憶している。これは旧約聖書の申命記8章3節に書いてあってイエスはそこに書いてあると答えたんだ、という話しだった。
誘惑
今日の箇所ではイエスは悪魔から誘惑を受けるということになっているけれど、誘惑と言えば誘惑かもしれないけれど、実際神の子ならばしてもいいことを悪魔が勧めただけのようにも取れる。悪魔はおかしなことをしろと言っているわけでもないような気がする。
神の子なら、石をパンにしても良いような気もするし、神の子なら天使から支えられるのだから飛び降りてもいいんじゃないかという気もする。流石に三番目の悪魔に平伏して拝むなら世の中の権力をすべて与えようというようなことは誘惑みたいだけれど、神の子なら元から権力はすべて持っているんじゃないのかという気もする。
イエスにとってこれが誘惑なのは、神の子にとってはたわいもないことをしたらどうかという誘いだからこそ誘惑なんだろう。つまり神の子なのに神の子らしくない、神の子のような力を発揮しないイエスに対して、神の子なんだから神の子らしくしなさい、という誘惑のような気がする。
同じようなことを私たちに言われたら困ってしまうだろう。石をパンに変えなさい、飛び降りなさい、権力を持ちなさい、なんて言われても困ってしまう。そんなこと出来ないよというしかない。祈って求めればなんでもできるはずじゃないか、それこそがお前の信仰じゃないのか、そんな風に言われたら恐ろしいことだ。
イエスは私たちもできることをしたんじゃないかという気がしている。私たちは石をパンに変えたり、飛び降りたり、権力を持ったりなんてできない。しかし聖書にこう書いている、という返事ならできなくはない。イエスは人間にでも出来ることをした。神の子らしく力を奮うなんてことは全然しないで、無力な人間にでもできることをした、そうやって無力な人間の側に立ち続けていたということなんじゃないかという気がしている。
この箇所はイエスが誘惑に打ち勝ったように、私たちも誘惑に負けないようにしましょう、という話しのように思ってきた。それよりなんだかイエスが私たちと共にいてくれている話しのような気がしている。
目の前に
信仰があれば病気も治り、苦しみからも解放され、悩みもなくなる、立派に元気に明るく強く生きるはず、祈りでなんでも解決し、どんなことにも立ち向かっていける、なんと言われたらどうしようという思いがある。
牧師をしていると病気の人のために祈って下さい、とか言われると怖い気持ちがある。信仰をもってその病気が癒されるように高らかに祈れない。祈って治るのだろうか、自分の祈りにそんな力があるとは思えない、神は祈ったとおりに聞いてくれるのだろうか、そんなこと考えると簡単には祈れない。信仰があれば信じて疑わないで祈れるのだろうか。それとも後のことは考えずただ祈ればいいのだろうか。信仰心が足りないんだろうかなんて考える。
イエスは石をパンに変えなかった。飛び降りることもしなかった。敢えてそうしなかったイエスが目の前にいてくれているような気がしている。確信をもってなんて祈れない、本当に大丈夫だろうかと心配しながらもじもじとしか祈れない。でも何もしなかったイエスが、神の子らしく振る舞わなかったイエスが、力を発揮しなかったイエスがすぐ目の前にいてくれているような気がしている。大丈夫だ、立派にならなくていい、力がなくてもいい、私はそんなお前と共にいる、と言ってくれているような気がしている。