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礼拝メッセージより
「罪人として」 2012年12月30日
聖書:マタイによる福音書 3章13-17節
ヨハネ
3章の初めの所に洗礼者ヨハネが登場する。彼は荒れ野で、悔い改めよ、天の国は近づいた、と宣べ伝えていた。そして「預言者イザヤによってこう言われている人」と言われている。
イザヤ書 40:3には、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」とある。
荒れ野
このイザヤ書はバビロン補囚の時代に書かれた。自分たちの国が他の国に占領され、指導者たちはその国に捕らわれていった、そんな時代に神が語った言葉が、この言葉だった。
荒れ野とは文字通り荒れた地で、石がごろごろしているところ。神はその荒れ野に、道を備え、広い道を通せ、と言われた。その道は、捕らえられている者たちをイスラエルに返す道を備える、もうすぐ解放される、自由にされる、もうすぐ帰れる、神がそう言っている。捕らわれているバビロンとイスラエルとの間が、実際にこの荒野だそうだ。そこに道を整えよ、と神は言われる。
でも実際にはその時は全く見通しが全く立たない苦しい状況だった、にもかかわらず神はその真っ暗闇の真ん中に道を備えようとされているのだ、とイザヤは伝えた。
悔い改め
ヨハネは荒れ野で語った。何もない荒れ野で語った。そこにエルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から人々が来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた、と書かれている。
ヨハネは悔い改めよ、と語った。悔い改めとは、向きを変えること。人間の性質、性格を変えてしまうことではない。そうなるかもしれないが、大事なのは、神との関係を変える、つまり神の方を向くということ。自分の進むべき方向へ向かっていく、そっちの方向に向きを変えるということ、それが悔い改め。
昔見たテレビで、小学校の運動会のかけっこのビデオが出ていた。ある子どもが一番になって先頭を走っていた、ところがその子はトラック沿いに走らずに退場門から出てしまった。
私たちの人生も、全く違う方向に向かって一生懸命に進んでいるようなものかもしれない。一番だぞ、と自分では自慢気に走っているが実はとんでもない方向に進んでいるなんてことがある。目的地に向かって走っているはずなのに、いつの間にか目的地がどこなのかもわからなくなってしまった。目的地もわからないけれど、兎に角一所懸命に走っている、目的地にむかうのが目的ではなくて、一所懸命に走ることが目的になっている、なんてことになってしまっているのが私たちの現状なのかもしれない。
そんな私たちが神の方に向き直って進むこと、それが悔い改め。悔い改めとは、私が悪うございました、といじけることでもないし、これからは決して罪は犯しませんと、とその時から、罪のない人間になると宣言することでもない。罪も持ったまま、駄目なものも抱えたまま、神の方に向きを変える、それが悔い改めだ。
神の方向へ向かって行くためにも、神の言葉を聞いていかねばならない。どっちに進めばいいのかを聞いていかねばならない。
車によくナビゲーションシステムというのがついている。最近では携帯にもついている。複数の人工衛星の信号を捕らえて、自分がどこにいるのか分かる。そして目的地を入れておくと、次の交差点を左折してください、なんてことまで言ってくれる。
聖書というのは、ナビゲーションみたいなものかもしれないと思う。その信号をキャッチしていないと、自分がどこにいるのかだんだんわからなくなってしまう。いつもキャッチしていると、いつもどこにいるのか分かる、私たちの向かって行くべき方向も分かる。もちろんそれで渋滞がなくなるわけではない。どうしても渋滞の中を通らないと行けないときもある。いかにも回り道のようなところを通ることもあるだろう。この道でいいのかと不安になることもあるだろう。しかしそれに従えば目的地に向かうことができる、そのためのもの、聖書とはそういうものなんだろうと思う。
罪人
荒野に登場したヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない」と言った。そこで登場したのがイエスだった。
イエスがヨハネのもとへ来ると、ヨハネからバプテスマを受けた。聖霊と火によってバプテスマを授ける、とヨハネから言われていたはずの方が、逆にまずバプテスマを受けられた。ヨハネが言っていることから考えると、ヨハネの方が何かをしてもらうことはあっても、ヨハネがイエスに何かをするなんてことはおかしいように思う。しかしそのおかしいことをイエスはされた。
イエスはバプテスマを受けるところから自分のわざを始められた。そもそもヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマだった。そのことから考えれば、罪のないイエスがバプテスマを受ける必要はなにもなかった。バプテスマを受けるのは罪人。罪人が悔い改めて受ける。神を忘れて神に向かっていなかったものが、神の方を向き直った時に受ける。だからバプテスマは罪人が受けるもの。
なのにイエスはバプテスマを受けた。なぜなんだろうか。ヨハネも不可解だったのだろう、最初ためらったけれども、イエスは正しいことをすべて行う事は、我々にふさわしいことです、と言ってバプテスマを受けたと書かれている。なぜイエスはバプテスマを受けたのだろうか。正しいことだ、と言う以上のことは書かれていないので理由はよくわからないけれど、それはイエスが罪人の側にいたから、ずっと罪人の側にいようとしたからではないかと思う。
イエスはその後の生き様を見ると、自ら進んで罪人と言われる人の所へ出向いている。いつも罪深い、弱い人間と同じ所に立っている。イエスはその活動の最初から人間の中におられた。罪人の中におられた。そしてずっと、十字架に至るまで罪人の中におられた。罪人の真ん中におられた。
バプテスマを受けられたのもそんな罪人と同じ所で生きる、というか罪人として生きる、私たち罪人と同じ世界で生きる、という決意の表れだったではないかと思う。
イエスがバプテスマを受けると、天がイエスに向かって開いて、神の霊は鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になり、これは私の愛する子、わたしの心に適う者という声が天から聞こえた、と書かれている。天がイエスに向かって開くというのは一体どういう光景なんだろうかと思う。しかしそれは神は天にいて、私たちとかけはなれたところにいて、遠い遠いところからじっとこの世を見ているのではなく、私たちの罪人の中にやってきたのだということを伝えているのだと思う。
神自らが私たちの普段の生活の中に、私たちの罪にまみれたこの世の生活の中に斬り込んできた。それがイエスなのだ、ということなんだろう。
いろいろな苦しみや痛みを負い、傷つけられたり傷つけたり、憎んだり憎まれたり、あるいは挫折し失敗し、いったいどうすりゃいいんだとまたそんな自分の無力さと嘆き失望する、そんなことばかりが多いのが私たちの人生だ。
けれどもそんな罪人として生きている私たちのただ中にイエスは来られた。そしてそんな罪人に語りかけた。その出発点がこのバプテスマだったように思う。そして、何があろうとお前はひとりぼっちではない、どんな時でも私がいる、今もそう私たちに語りかけてくれているのではないか。
そんなイエスと共に生きようという決意の表れが私たちのバプテスマなのだろう。