前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「揺れながら」 2012年12月16日
聖書:マタイによる福音書 1章18-25節
正しく
嘘をつかない、人の迷惑にならない、等々誰もがいろんな信念を持ってそれを大事にして生きている。そういうことを自慢げに話す人も少なくない。嘘もつかず、誰の迷惑にもならないで生きていければ、それはそれでいいのかもしれないけれど、実際にはなかなかそうもいかないと思う。正しく立派に、正々堂々と、誰にも自慢できるように行きたいと思いつつ、失敗や挫折や、嘘や迷惑、そんな触られるとうずくような傷を持ちながら誰もが生きているのだと思う。
ヨセフ
クリスマスの主役はイエスだが、その次はマリアということに相場が決まっている。それに付け足しのようにでてくるのがヨセフ。イエスの生涯の最初にだけ現れ、たちまち消えてしまう人物。イエスは戸籍上はヨセフの子ということになる。マタイによる福音書の最初に系図が載っていて、その系図によるとイエスはヨセフの子どもとして書かれている。しかし血筋から言うとイエスは彼の子ではない。そしてイエスと言う名前も、天使がそのようにつけなさいといわれたものでヨセフが付けたものではない。
神によって、聖霊によって身籠もった子どもとはいっても、自分の血を分けた子どもではないイエスの父親となるようにさせられた、このような不条理を背負わされた男がヨセフだった。
疑い
ヨセフはマリアと婚約していた。婚約といっても、マリアは10代前半で、ヨセフは二十歳そこそこくらいだったのではないかと考えられているそうだ。婚約してから結婚するまでどれ位の期間があったのかはわからないけれど、ヨセフも結婚してからのいろんなこと、甘い生活も夢見ていたかもしれないと思う。
しかし許嫁のマリアが妊娠してしまったと知る。全く夢にも思わなかったようなことだっただろう。結婚するはずの相手が、自分の知らないところで妊娠してしまう。それ以上の裏切りはないというほどの衝撃だったのだろうと思う。
ヨセフはユダヤ教徒だった。その頃ユダヤ教の会堂では学校のような役割も担って子どもの教育もしていたそうだ。ヨセフも小さいころから聖書を学んでおり、律法もよく知っていたであろう。そしてその律法には姦淫の罪は石打ちに刑にあたるということももちろん知っていただろう。
マリアは一体誰と、どうして、ヨセフはさまざまな思いに、疑惑に苦しめられたに違いない。もし、このことを表沙汰にしてマリアを訴えれば、マリアは姦淫の罪を犯したとして石打ちの刑に処せられることも知っていただろう。
婚約の段階での離縁は、正式に結婚した後に比べれば比較的簡単だったそうだ。法廷に持ち込むことなく、離縁状を渡したことを証明する二人の証人がいれば良かった。あるいは妻のことを公にして問い詰めることもできたけれども、いずれにしても、こうした手続きをとらない婚約破棄は許されなかった。
ヨセフは、裏切られたという気持ちもあっても当然だと思うけれども、だからと言って将来を約束しあったマリアを死に追いやることなどできなかったようだ。そこでひそかに二人の証人の前で離縁状と手切れ金を与えて離縁しようとした。
ヨセフにとってはそれは正しい方法であった。律法に照らし合わしても、何の落ち度もなかった。誰からも非難されることもなかった。そうすることによってヨセフはマリアと手が切れるはずであった。どうしてこんなことになったのだ、いったい誰の子なのだ、これからどうしたらいいのだ、というような悩みと苦しみからひとまず手放すことができるはずだった。
ヨセフは正しく生きていた。原則どおり生きていた。理屈どおり生きていた。「ヨセフは正しい人だった」と聖書にも書いている。そして密かに離縁する、という正しい選択をしようとしている。律法的、法律的には正しかった。しかしその正しさは間違いを排除していく、間違ったものを切り捨てていく正しさだった。そしてその正しさはマリアを窮地に追いやる正しさでしかなかったのではないか。その正しさは、マリアとの関わりを絶ってしまい、マリアを愛することを止めてしまう、そんな正しさだった。
恐れるな
しかし主の使いがヨセフに夢の中に現れ、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と告げる。この出来事は神の仕業なのだという。だから恐れることはないという。ということはヨセフはマリアと結婚することを恐れていた、本当はこのまま結婚したいけれど、それは律法に背くことであり、けじめをつけないことになる、そしてその後どんな非難中傷があるかもしれない、というような恐れをヨセフが持っていたということなんじゃないかという気がしている。本当はマリアを守りたい、けれども律法に従って生きるという信念に反する、そんな揺れる思いの中で夢を見たのではないかと思う。そしてその夢の中の天使の言葉によってヨセフは、自分の信念よりも、律法よりもマリアを愛する思いを優先する決意を固めたのではないかと思う。
愛するとは自分の持っている正しさとか信念という陣地から出ていくことではないか。自分が正しい側にいつづけたいと思うならば、本当には人を愛することはできないのかも。自分が正しい側から出ていくことが人を愛することではないか。
そのためには勇気もいるし、そこには恐れもある、世間の非難を受けることになるかもしれない。正しい世界にいる者からは、あいつは何をやっているのか、ということになるのかもしれない。それまで通り、いままで通り、正しい世界にいたほうがきっと楽だったのだろう。ヨセフにとっても、ここでマリアと縁を切っておけば、周りから非難さえることも無く、その後に起こるかもしれない面倒なことにも関わらずにすんだであろう。
しかし天使はそんなヨセフに対して恐れるなと告げる。恐れず出ていけ、と告げる。もしマリアが自分の正しさの外側にいるならば、そこに出ていけ、信念の外側にいるならば、信念を曲げてしまえ、と告げたのだろう。
でもきっと迷いも恐れあっただろう。夢でお告げを聞いてもマリアへの疑惑がきれいさっぱりなくなりはしないだろう。聖霊によって身籠もるなんて言われても、はいそうですか、とはならないだろう。そんな不可解な訳のわからない出来事に直面しているのだ。それらを受けとめていくことは容易ではない。
しかしヨセフは自分の正しさを、自分の信念を乗り越えてマリアとずっと一緒にいる方を選択したのだろう。ヨセフは天使の「恐れるな」ということばにすがりついて乗り越えていったのではないかと思う。
揺れながら
そこからヨセフにとって平穏無事な世界が始まったというわけではなかっただろう。いろいろな思いに揺れる人生が待っていたに違いない。しかし、神はそのヨセフと共におられた。いろんな疑惑がまたよみがえってきて心が揺れるような時も、あるいは弱気になって投げ出したくなるような時もあったのではないかと思う。しかしきっと神はそんな心揺れるヨセフと共に揺れて下さったのだと思う。神が共にいるとはそういうことなのではないか、と思う。神が共にいるということは、全く揺れなくなると言うことではないだろう。私たちが揺れる時にもいっしょに揺れてくれる、それがインマヌエルの意味なのだと思う。
フィリピ2:6-8「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
ヨセフの生き様はイエスの生き様を暗示しているような気がする。神でありながら垣根を乗り越えて人間の側に来てくれている、どんな時にも共にいてくれる、それはまさにイエスの姿そのものだ。
昔、バプテスト誌の中である教会の牧師のこんな話が載っていた。
若い夫婦で二人とも小学校の教師をしている人の話二人に子どもができたが、その子は妊娠しているときに重い障害を持っていることが分かり、医者から中絶を勧められた。けれども、どうしても決断できず、夫がその教会の幼稚園の卒園生だったこともありこの牧師のところに相談に来た。相談と言っても、本人たちはその時にはほとんど産む決心をしていたようだったそうだ。そして子どもを産んだ。その子は医者の診断どおり、自分の力では生きることができず、28日間の生涯を閉じた。その後、夫婦は礼拝に出席するようになった。
2年後の永眠者記念のときにその婦人がこう語った。「今わたしの体内に新しい命が宿っています。もちろんうれしさがありますが、同時にはじめの子のことが頭をよぎり、心配の余り『どうか五体満足で産まれてきて』と願っている自分に気づき、はっとします。そしてそう願っていることをはじめの子に申し訳ないと思うのです。今私はこの両方の思いの間で揺れています。」この牧師はこれに対してこう結んでいます。「私たちはこの真実な言葉の前で、気休めや分かったような理屈で慰めることをやめて、この夫婦の『心の揺れ』と共に私たちも揺れさせていただこうと決意したのでした。」
共にいる、というのはマタイによる福音書の最初と最後の両方に出てくる。神が共にいるということは、私たちが泣いているときには一緒に泣いて、笑っているときには一緒に笑って、揺れるときに一緒に揺れて、苦しんでいるときには一緒に苦しんでくれているということなのではないか、と思う。誰にも知られたくない自分の傷が疼くときにも、イエスは一緒に疼いてくれるのだろう。イエスはそういうふうにいつも共にいてくれるのだろう。クリスマスはそのことを感謝し、喜ぶ時なのだと思う。