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礼拝メッセージより
「出直し」 2012年12月9日
聖書:マタイによる福音書 28章16-20節
ふるさと
室生犀星の故郷という詩がある。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて 異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
(現代語訳)
ふるさとは遠くにあって思うもの
そして悲しく歌うもの
例え
落ちぶれて 異土の乞食になったとしても
帰るところでは無いだろうなあ
ひとり都の夕暮れに
ふるさと思い涙ぐむ
その心をもって
遠いみやこに帰りたい
遠いみやこに帰りたい
弟子たちと会う
イエスの弟子たちのふるさとはガリラヤである。復活のイエスはそのガリラヤで弟子たちと会う。弟子たちはイエスの呼び掛けに答えてイエスに従っていった。仕事を捨ててついていった。弟子たちにとってそれまでの人生がどういうものだったのか分からない。十分満足できる人生を送ってきたわけではなかったのではないかと思う。こんな田舎で燻っていたくはない、あるいはこんなつまらない人生はもういやだ、というような、そんな別の人生を生きたいという願いを持っていたんじゃないのか、だからすぐにイエスに従っていったのではないか、という気がしている。ところがその自分の師匠がこともあろうに十字架なんぞにつけられて殺されてしまった。
やがては立派になって故郷に錦を飾る、なんて気持ちも芽生えてきていたんじゃないかと思う。誰もが賞賛する立派な先生の弟子、偉大な指導者の弟子としていつかは故郷に帰ることもあるだろうという気持ちも持っていたんじゃないかと想像する。
僕なんかだと、有名人の知り合いがいたりすると自慢したくて仕方ない。立派な先生に教えてもらったなんてことも自慢したくなる。イエスに対するいい評判を聞くような時には、あるいは自分達がイエスと一緒に社会を変えるんだという野心もあったのかもしれない。
しかし彼らは十字架を前にしてイエスが捕まるとみんな逃げてしまった。中途半端についていっていざとなると逃げ出した。どこまでもついていきます、死んでもついていきます、なんてことも言いながら、最後にはそんな人は知らないと言った弟子もいた。潔くイエスに従っていったのに、やばくなると見捨てて逃げてしまった、弟子たちは誰もがそんな挫折感を味わっていただろうと思う。
復活の朝、イエスは墓にやってきた婦人達に、弟子たちよりガリラヤに行くように、そこで会うことになると言いなさい、と告げている。弟子たちにとって故郷であるガリラヤに帰ることはかなりつらいことだのだろう。偉くなって錦を飾るどころか、「イエスなんていう変な奴についていくからこんなことになるんだ」と言われかねない状況になってしまった。弟子たちの落胆は相当なものだったことだろう。
しかしそのふるさとのガリラヤで弟子たちは復活のイエスと再会したと書かれている。イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちはイエスが指示していた山でイエスに会った、しかし疑う者もいた、なんて書かれている。復活がどういうものなのか、死んだ後元の体で生き返ったのか、あるいは幻のようなものだったのか、はっきりとは分からない。この福音書でもおぼろげにしか書かれていないような気がする。
ガリラヤは弟子たちにとっての故郷であり、またイエスと出合い、イエスと共に生きた場所だった。ガリラヤに帰ることで、弟子たちは、かつてイエスの姿、イエスの声を思い出したに違いないと思う。ここであんなことがあった、ここではこんなことを語っていた、というように、そこで改めてイエスの姿を見直し、イエスの声を聞き直したのではないかと思う。そして弟子たちはかつて聞いたイエスの言葉によって元気になってきたのではないかと思う。復活のイエスに出会うとはそういうことだったのではないかと思う。
ガリラヤに帰るまでは、何もかも捨てて従ったのに、この先どうすればいいんだ、というような自分のことにばかり目が向いていたのではないかと思う。そんな弟子たちとガリラヤで会うというのは、イエスの語ったことを思い出させるための命令だったのではないかと思う。
周りから責められるのではないかという恐れと、これからどうなるのかという不安にさいなまれて、自分のことにばかり目が向いていくような状況の中で、もう一度イエスを見つめるように、イエスの言葉を思い出すようにということだったのではないかと思う。そしてそこから新たな出発をするようにということだったのだろうと思う。
出直し
弟子たちはふるさとのガリラヤから出直した。かつてイエスの姿を見つめ直し、イエスの言葉を聞き直した、そこに弟子たちを立ち上がらせる力があった。もう一度出直す力がそこにあった。生前のイエスにすでにその力があった。
師匠を見捨てて逃げてしまうという挫折を経験した弟子たちだった。そんな傷を負ったことで初めてイエスの言葉の意味に気付いていったのだろうと思う。
そのイエスの姿、イエスの声は聖書にまとめられて私たちの元へも届けられている。挫折し傷を負った者を力づける言葉がこの中にまとめられている。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる、弟子たちはイエスのその言葉を聞きつつ、その後の人生を歩んでいったのだろう。それはまた私たちに語りかけられている言葉でもある。
志を果たして、いつの日に帰らん、と思いつつなかなかそうも行かない、挫折と失敗をして、嘆いてばかりの人生だ。しかしイエスは大事なことは神を愛し人を愛することだ、と言われている。故郷に錦を飾らなくてもいい、それよりも愛する者となりなさい、私はそんなあなたたちと世の終わりまで共にいる、そんなあなたたちを愛している、そう言われているのだと思う。