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礼拝メッセージより
「ただ」 2012年12月2日
聖書:マタイによる福音書 16章13-23節
人々は?
「フィリポ・カイサリア」 ガリラヤ湖のはるか北方。ヨルダン川の水源近く。ヘルモン山のふもと。今のゴラン高原。イエスの活動した中ではエルサレムから一番遠い所。そこには、ヘレニズム時代からパン神の神殿があり、またBC20年に、ヘロデ大王が建てた、総大理石のローマ皇帝崇拝のための神殿もあった。ローマの神々のひしめく場所だったようだ。
イエスは「人々は私をだれと言っているか。」と弟子たちに聞く。
弟子たちは「バプテスマのヨハネ、エリヤ、預言者のひとり」と答えた。
バプテスマのヨハネは処刑されて殺されてしまっていた。イエスがバプテスマのヨハネだとすると死人が生き返ったということになる。
エリヤは旧約聖書にも登場する超有名な預言者。今でもユダヤ人の評価は高い。過越の祭りのときにはひとつのいすを「エリヤの椅子」として空席として、エリヤの再来を期待する。エリヤの再来と言う人たちからは、イエスはかなり評価されていたということになる。エレミヤだという人もいたそうで、かつての預言者と同じような偉大な人がやってきたという評価はあったらしい。国が傾いたり、なくなったりしたときに登場した預言者がまた現れて、ローマ帝国に支配されている国を、もう一度強い立派な国に建て直してくれるということを期待する空気があったようだ。
あなたがたは?
イエスはさらに質問する。「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」。メシアとはヘブライ語で、それをギリシャ語に訳すとキリスト、救い主のこと。ペトロの答は正解、ということなんだろうけれど、ペトロがイエスのことをどれほど知っていたのだろうか。正解だからよく知っていたとも限らない。テストで、誰それの書いた作品の名前は、なんて問題がよくあるけれど、その答はしっていても中身は全然知らないなんてことも多い。
ペトロはイエスに対して、あなたはキリストだと言ったわけだけれどイエスのことをどれほど知っていたのだろうか。やがてメシアが来てくれるということはみんな知っていたようだ。いつかメシアが来て、世を改めてくれる、と思っていた。しかしそのメシアは王として、政治的な王として来て、列強の支配から自分たちの国を解放してくれる者、そして強力な国にしてくれると思っていたらしい。ペトロもそう思っていたのかもしれない。イエスから、あなたはわたしを何者だと言うのかと問われて、メシアですとは言ったけれど、メシアのことをよく理解して、イエスのこともよく理解して言ったわけではなかったようだ。逆にペトロはイエスに対して、自分の思い描いているメシア、キリストであって欲しいというような願いのようなもの、あなたこそ自分達の国を強くしてくれるメシアなんですよ、というような気持ちがあったのかもしれないと思う。
鍵
これに対してイエスは、あなたは幸いだ、あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ、という。イエスのことをキリストだと分からせた、信じるようにさせた、そう告白させたのは天の父である神なのだという。つまりペトロが自分で判断した結果、イエスのことをキリストだと判断したのではなく、イエスのことをあまり分かっていない、ほとんど理解もしていない、けれどもキリストだと信じるようにしてくれたのは神自身なのだというだの。
そしてその上で、ペトロに向かって、あなたの上に教会を建てる、天の国の鍵を授ける、なんてことを言う。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる、地上で解くことは天上でも解かれるというのだ。つなぐというのは閉ざすことで、解くとは開くということだそうで、つまり天の国を閉ざしたり開いたりする鍵をペトロに授ける、というのだ。イエスをキリストであると告白する者に、天の国の鍵を授けるということなのだろう。なんともすごい話しだ。
家の鍵を誰かに渡すというときには余程信頼できる者にしかしない。イエスは天の国の鍵をペトロに授けるというのだ。
ペトロがそんなに信頼できる男だったのだろうか。イエスはそのすぐ後で、これから自分はエルサレムへ行くこと、そこで処刑され三日目に復活するということを告げる。
ところがペトロがイエスをわきへ連れていっていさめはじめた。
ペトロは、キリストが殺されるなんて、そんなことを言っちゃあいけませんよ、と思っていたのだろう。あんたはキリストなんだから、あなたが世界を救うのだから、自分から殺されるなんていうもんじゃありませんよ、ということなのだろう。そんなのはキリストではない、というような気持ちだったように思う。
ペトロはあなたはキリスト、生ける神の子ですと告白し、あなたは幸いであると言われたすぐ後で、「サタン、引き下がれ」と言われている。
そうするとペトロは十分にイエスを理解していなかった、あるいはまるでほとんど理解できてはいなかったのだと思う。ペトロの願いは、イエスに対して、誰にも負けない強い力を持ち、自分達の国をまた強くしてくれる、そんな力強い王さま、そんなキリストであって欲しいということだったのではないかと思う。
ペトロはイエスの本当の姿を知ったのは、十字架と復活を経験してからなのだろう。
ある人は、十字架はつまずきであり、納得することをゆるさないつまずきであるからこそ、十字架の意味があるのではないか、と言っているそうだ。何で十字架なのか、何で十字架につけられないといけなかったのか、本当のところは納得することもできないで、ただ受けるしかないということかもしれない。十字架は理解するものではなく、受け取るものかもしれないと思う。
兎に角、ペトロはイエスに、あなたはメシア生ける神の子です、と言ったけれども、メシアがなんなのか、イエスはどんな方なのか、ほとんど分かってはいなかったということになる。もちろんこの時点では十字架も復活もろくに分かっていなかった。
ところがイエスはそんな何も理解していないようなペトロに、「あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたということになる。
イエスの真の姿も全然よく分かっていないと思われるペトロの上に教会を立てる、という勿体ないようなことまで言われている。それでいいのかな、なんて思う。
あなたは?
ペトロの告白は私たちがバプテスマを受けるときの信仰告白に似ている。私たちもイエスのすべてを知らない。本当はほんの一部しか知らないのかもしれない。しかし、少しを知った所から信仰は始まっている。ただイエスがキリストであることを知ったところから、そう信じた所から始まっているのだろう。
コリントの信徒への手紙二12:3でも、聖霊によらなければ、だれもイエスを主であるとは言えない、と書かれている。イエスをキリストである、救い主であると信じるところとは、神によってそう信じるようにしてもらった、そこから信仰は始まっている。私たちはバプテスマの時だけではなく、今でも聖霊によって信じさせてもらっている、神の力によって神とつながらせてもらっているということだ。
信じて信じてまるで疑わない、疑う心を全部なくしたところ、それこそが信仰であるというような言われ方をすることも多い。けれども聖書によると信仰は、イエスをキリストである、救い主であると告白すること、それこそ信仰なのだ。つまずいたり、間違ったり、失敗したり、疑ったり、そして裏切ったりすることもあるかもしれない。弟子たちはみんなそうだった。しかし信仰とはそんな失敗を通して、でもやっぱりイエスは救い主なのだと信じさせてもらうことなんじゃないかと思う。疑いも恐れもかかえたまま、そこでかすかにでもイエスに希望を持ち続けること、神によって神の力によってその希望を持ち続けさせてもらうこと、それが私たちの信仰じゃないのかなと思う。
からし種
イエスはからし種一粒ほどの信仰があれば、山が動くと言われた。極端な大袈裟な言い方だとは思うけれども、信仰に大きさとか深さとか、そんなものは関係ないということなんじゃないかと思う。あるかないか、なんだろう。
少し前にハヤブサという探査機が小惑星イトカワの砂を持ち帰ったことがあった。砂と言っていいのかどうか分からないが、大きさは10-100ミクロンの粒を持ち帰ったそうだ。100ミクロンということは0.1mmということだ。0.1mmとか0.01mmの粒だけれども、それを持ち帰ったことには変わりはない。何も持ち帰られなかったのと、0.1mmを持ち帰ったのは全く違う。大きさなんてほとんど関係ない。
信仰もあるかどうか、なんだろうと思う。ほんの僅かでもイエスに希望を持つこと、それが信仰なんだろうと思う。大きさなんてないのだと思う。
イエスのすごさは、サタンと呼ぶペトロに対して、ペトロの上に教会を建て、天の国の鍵を授けることを撤回しないことだ。イエスも、私たちから見たらかすかなものでしかないと思えるようなそんな信仰を大事に尊重しているんじゃないかと思う。
ただ
私たちもイエスについて知らないことがいっぱいだ。私たちが失敗したり挫折したりする、そんなことを通して、そこでイエスを見つめることで、そこでイエスに聞いていくことで少しずつイエスを知っていく、そこにキリスト、救い主、助け主の本当の姿が見えてくるのだろう。
誰かから聞かされたキリストの姿ではなく、自分で勝手に思い描いた姿ではなく、ただイエスを見つめなさい、ただイエスに聞きなさい、そこにキリストがいる、それこそがキリストの姿なのだ、そう言われているような気がする。