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礼拝メッセージより
「希望」 2012年11月25日
聖書:ヨエル書 2章25節-3章5節
打撃
人生にはいろんな打撃を被ることがある。思いもよらないことが色々起こる。そして思いもよらない苦しみにあうことがある。
なぜ苦しみにあわねばならないのか、その原因を知ることは難しい。自分に原因があることもあり、そうでないこともある。自分が悪いときはもう仕方がないとあきらめるしかないような気がする。それは当然の仕打ちだと言われればどうしようもないと思う。
ヨエルの時代がいつ頃なのか、あまりはっきりしないらしいが、そのヨエルの時代に民はいなごによって大きな被害を受けた。それは恐るべき日とか、主の怒りの日と言われるような大変な有り様だったようだ。
食べるものがないということはどんな大変なことなのかあまり想像もできない。戦後は食料もなくって大変だったと聞く。そんな状況がこの時あったようだ。しかもその上干ばつが続き、作物ができる望みもたたれたような状況だった。
どうしてそんなことになったのか、それはイスラエルの人々が神を無視していたためだったのだろうか。そうかもしれない、でもよく分からない。しかしこの苦しみの中でヨエルは民に向かって、今こそ神に帰れ、と告げた。苦しみの中で自暴自棄になるのではなく、ただ神に文句を言うのではなく、今こそ神に帰れという。ということはかなり神から離れていたということだろう。宗教的な儀式を守っていたかもしれないが、心はすっかり神から離れていたということだろうか。
爆弾
イスラエルの人々はいけにえをささげるという儀式を守ることで神との関係を持っていた。でも次第にいけにえをささげるという行為を行うこと自体が問題になってきて、やがていけにえをささげないことが悪いこととなり、次第にささげないことによって何か都合の悪いことが起こるかもしれないからささげておこう、心はどうあれ、形だけでもささげておかねば、となっていったのではないか。
家を建てるときによく地鎮祭をする。それはその土地の神が悪さをしないように鎮めておくためにするらしい。そうするとその土地の神は、自分たちに悪さをしようと待ち構えている、なんだか人間の敵という感じがする。決められた通りにしておかないと、何か落ち度があれば悪いことをされる、というのであれば、それはまるでいつも爆弾をかかえているかのようだ。いつその爆弾が爆発するかわからないので、間違って爆発しやしないかとひやひやしながらすごさないといけない。神はそんな風に何時爆発するかわからない、だからなるべくさわらないように、触れないようにしないといけない、そして触れないといけないときには、決められた通りにないと爆発してしまう、静めておかないといけない神というと、なんだかそんな爆弾のような気がしてしまう。
聖書の神もそんな神なのだろうか。爆発しないように鎮めておかないといけない神なのだろうか。そうではないと思う。いけにえを献げよ、といったことも、いろいろな律法を守れということも、それは神と人間との繋がりを保つためのものなんだろうと思う。爆弾ならばなるべく触れないようにしないして、関わらないように鎮めておかないといけない。
2:12『主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。』
聖書の神は、わたしに立ち帰れ、帰ってこいという神だ。神自身が帰ってこい、という神なのだ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるから、そんな神だからその神の元へ帰ろう、とヨエルは告げている。災いを下すことはあっても、そのことを悔いるような神なのだ、と言っている。
償い
そして今日のところでは、いなごと干ばつによって大きなダメージを受けていたイスラエルに対し、神はその損害を償うという。その償いとは具体的には23節以下にあるように、秋の雨や春の雨を与えるということなんだろう。そうすることで、麦打ち場は穀物に満ち、搾り場は新しい酒と油に溢れる、と言われている。
かつての苦しみを償うという。かつての苦しみを帳消しにするほどの、覆い尽くすほどのものを与えるという。
何もない
すっかり何も無くなってしまったとき、それは今で言えば教会の人数も減り、お金もなく、力もない時ということかもしれない。そこで私たちは何をすればいいのか。
イスラエルの人々は、食べ物さえも無くしたときに、主に帰れという声を聞いた。苦しみの中で神に帰ることを聞いた。そして神に憐れみを乞うた。そこで、神が自分たちを愛し憐れまれていることを知った。
私たちも、何よりもそんな神との関係を持つこと、神との関係の中に生きることを大事にしないといけないのだろう。「今こそ、わたしに立ち帰れ」という言葉は私たちにも語りかけられているのではないか。心を引き裂いて、心を割って神のもとへ帰れと言われているのだろう。
ぬかりがあってはなにをされるか分からないというようなおそれを持ってではなく、鎧もなにもかも脱いで、心を引き裂いて、それはぼろぼろの心のままでということなのではないかという気がしているけれど、そんな心のままでいいから神に帰れ、ということだろうと思う。
神はただ私たちにどんな落ち度があるかを見張っているような、そんな爆弾のような神ではない。ただ私たちをいためつけるだけの神ではない。ぼろぼろに引き裂かれた心をも受け止めてくれるような、いわば一番の味方なのだ。だからそこに帰れと言う。
すべて
ヨエルは、そんな神のもとへ帰る民に神の言葉を告げる。その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ、と。すべての者だ。ある特別な人だけではない。
そして使徒言行録2章にあるように、ペンテコステの日に起こった出来事は、まさにここに約束されていることが起こったのだ、とペテロは説教している。
その同じ神の霊は私たちにも注いでくださるのだろう。或いはもう注がれているのではないか。そしてそこから私たちは苦しみに立ち向かう力を得られる。
すべてを知っておられ、すべてを支配しておられるこの神が私たちを愛し憐れんで下さっているのだ。私たちの味方となって下さっているのだ。
幻想
私たちは問題に直面するとその問題にばかり目を奪われる。教会も人数が少ないしお金もない。何かをする力も知恵もない。大きな教会の話しを聞くと、自分はだめだなあと思う。昨日も広島の教会でハンドベルの演奏会がある、何て話しをラジオで聞いた。ラジオが取材に来るような教会と比べて自分の教会は、なんてすぐ卑下してしまう。
もっと人数が増えれば、もっとお金があれば、あんなことが出来る人がいれば、こんなことが出来る人が来れば、そうすればもっと大きないい教会になるのではないかなんて思う。でもそんなお金もない、人もいない、だから何も出来ないと思う。そういう風に、自分にないこと、ないもの、にばかり目を奪われてしまいがちだ。無いものばかりを見て、あるもののことを忘れてしまうことがある。でもそんな幻想ばかりを見ていては何も始まらない。
気づき
確かに今は何も出来ないような無力な数少ない私たちだ。しかし私たちも神は憐れんで下さっている、愛して下さっている。
神が私たちにどんな雨を降らせてくださるのか、どんな恵みを与えられるのかは分からない。しかし神が私たちの味方でいてくださっているのだから、私たちは自分の出来ることをやっていけばいいのだと思う。ないものを嘆くのではなく、神がどんなものを与えてくれるのか、どういう風に支えてくれるのか、そんな希望を持って、今自分に、自分達に与えられているものを感謝し、大切にしてくことが大事なのだと思う。