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礼拝メッセージより
「豊かさとは」 2012年11月18日
聖書:アモス書 5章21-27節
背景
ユダヤの国が北イスラエルと南ユダ王国に分裂して後、160-170年が経った頃、南王国ユダはウジヤ王が、北王国イスラエルはヤロブアム2世が治めていた。
その頃北王国イスラエルは、北にあるアラムやアッシリヤが衰退し、失った国土を回復した。
国力も回復した北イスラエルは、エジプトからイズレエルの谷を通過してダマスコに抜ける国際幹線道路上の各所に関を設け、関税などを取り莫大な利益を得た。
しかし経済的に潤ったのは国の一部の上流階級のみであって、下層階級はより貧しくなった。
豊か
誰でも豊かになることを目指す。色んな物をいっぱい手に入れたいと思う。しかしお金も資源も、あらゆる物質も、無限にあるわけではない。自分がいっぱい持つと言うことは誰かが少なくなってしまうことでもある。
拒否
神は、お前たちの祭りを憎み、退けるという。イスラエルの人達は、過越の祭や仮庵の祭りや、日常的ないろんな儀式を行っていたようだ。でも神はそんな祭を憎み退けるというのだ。
それは大変なことだ。祭を行うことで神との関係を持つことができるはずなのに、その祭を退けると言われてしまうといったいどうすればいいのか。
献げ物も受け入れてもらえず、歌も聞いてもらえない、完全に神から嫌われてしまっている。神から嫌われてしまったらいったいどうやって生きていくのか。いったい何が悪いのか、これからどうすればいいのか。その答が、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」ということだった。
最初に言ったように、イスラエルの国は富むようになった。しかし国は富んでも、一部の金持ちだけは大いに富み、貧しい者を虐げ、弱い者を不当に扱っていたようだ。金持ちや権力者だけがいい思いをし、貧しく弱い者を苦しめている社会となっていたようだ。
それに対して2:6-7では『主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で/貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ/悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い/わたしの聖なる名を汚している。』
また8:4-7では『このことを聞け。貧しい者を踏みつけ/苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らが行ったすべてのことを/いつまでも忘れない。」』と言われている。
そして神はそのことこそが問題であると言っているようだ。献げ物をすることが悪いと言っているわけではない。献げ物をして神を見ているようだが、その神の望むことはしていない、神の語る言葉は聞いていない、と言われているのだろう。
隣人
イエスは、神を愛し隣人を愛せ、と言われた。私たちの礼拝は神の声を聞くときだ。その神の声の中にはいつも隣人が出てくる。自分ひとりが礼拝でいい思いをすればそれでいいということではないようだ。
礼拝で自分がどれほどいい気分になったかどうか、そんなことを気にする。今日は楽しかった、嬉しかったといい気分で帰りたいと思う。しかしそんなふうに自分がどれほど満足できたかということだけを追求していくところでは、隣人は見えないし、やがて神も見えなくなるのではないか。自分だけを見ているところでは、神も自分を満足させる手段でしかなくなるのではないか。
正義
アモスは、正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ、という神の言葉を告げる。
正義を行うとは、「力無き人々のために、弁護者として働くこと」と書いてあった。隣人を大事にするということと繋がるだろう。
私たちはその隣人を大事にしているのだろうか。力無き人々のことをどれほど見ているのだろう。社会の中で苦しんでいる人のことをどれほど見ているのかと神から問われているように思う。苦しい思いをさせられている人たちのことをもっと大事にしないといけないのかもしれない。
正義
アモスの時代の人達も、自分には関係ないから、自分は苦しくないから、社会的なおかしなことに対しても、別にいいんじゃない、ということだったのかもしれない。私だってそんなに楽じゃないんだ、そんな人のことまで構っちゃいられないよ、ということだったのかもしれない。自分が差別される側ではないから、差別される人がいても殊更何も言わないでいることが多い。
隣人を愛し大事にすることを神は求めている。隣人を放っておいて無視しておいて、いくら献げ物をしてもそんなものを神はまるで喜ばないということだろう。苦しんでいる人のことを放っておいて、いくら祈っても讃美歌歌っても、そんなものは知らないと言われているようなものだ。
神との関係の中に生きるように、そして隣人との豊かな関係を持って生きるように、と神は言われているのではないか。
私たちは自分がどうであるか、自分がどう満足できるか、自分がどう豊かになれるかということを目指す。自分が色んな物をいっぱい持つことが豊かだと思うことが多いのではないか。
しかし実は豊かさはまず自分がどれほど持っているかではなく、他者とどう関係を持つか、どう分かち合っているかというところにあるのではないか。豊かさは独り占めするところではなく、分け与えるところにあるのだと思う。隣人のことを心配し、気遣い、その人のために努力するところに豊かさがあるのだと思う。それが正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせること、それはそうする自分たちが豊かになることでもあるのだと思う。
そういう豊かさの中に生きるようにと神は言われているのではないか。そういうふうに隣人を愛し大事にするようにと求められているのだと思う。