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礼拝メッセージより
「おおきすぎる」 2012年11月11日
聖書:ヨナ書 3章1節-4章11節
絵本
ヨナ書はまるで絵本をみたいだなと思う。ニネベに行って神の言葉を告げるようにと言う神の命令に逆らって船に乗って逃げたけれど、そのために嵐に遭ってしまう。自分の所為で嵐になったからということで海に投げ捨ててくれと言って海に放り込まれる。しかしそこで大きな魚に飲まれて3日間魚の中にいる。そこでお祈りをしたあと陸に吐き出される。そして今度は神の命令通りにニネベに向かう。
そんな絵本の台詞のような文章だなと思う。
ニネベ
ヨナは魚から吐き出されたあと、今度はニネベに向かった。そして神の命令通りにニネベの民に神の言葉を告げる。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」そうするとニネベの人たちは誰もが断食し、悪から離れ、不法を捨ててしまったというのだ。そして「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」(3:10)
ニネベの人たちが滅ぼされそうになった原因は、悪に染まり、不法を働いていたということだったのだ。しかし彼らは王から率先して王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じ、悪の道から離れるようにと言った。家畜にまでも断食するようにと言った。そうすればあるいは神が思い直してくれて、怒りを鎮め、滅びから免れるかもしれないからそうしようというのだ。
そして、あろうことか神は彼らが悪の道から離れたのを見て、神は災いをくだすことをやめてしまった。
ヨナが最初に神の命令に背いて、ニネベとは逆方向の地の果てまで逃げてしまおうとしたこととは対照的である。ニネベの民は神の言葉を聞いてその言葉を真剣に受け止めたというのだ。自分たちは神に選ばれ愛されていると思っていたであろうイスラエル民族のヨナよりも、外国人、異邦人であるニネベの民の方がよっぽど素直に神の言葉を聞いている。そして自分たちの間違いを素直に認めて悪から離れた。まったく素直な信仰深い人たちだ。
不満
しかしヨナは神がニネベに災いを下すことをやめてしまったことが気に入らない。ニネベの人たちが素直に悔い改めてしまって、その結果神がニネベの人たちを赦すことが気に入らない。
イスラエル人でない異邦人であるニネベの人々を、それも自分達イスラエル民族を散々苦しめていたそんな民を神が憐れんでいる、そんな民を大事にしている、あんなやつらのことを赦すなんていったいどうしたことか、そんな思いがヨナを不満にさせたのではないか。
ヨナは主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」(4:2-3)
あんな奴等は赦してはいけないのだ、裁きを受けるべきなのだ、だから悔い改めるチャンス自体与えてはいけないのだ、だからニネベには行きたくなかったのだ、と言うわけだ。
ヨナは神のことを恵みと憐れみの神、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方である、と言っている。ところがそんな神であることが気に入らないというのだ。
人は誰でも自分に対してそんなふうに恵みと憐れみを持って接してくれることは喜ばしいことだろう。間違いを犯しても罪を犯しても忍耐を持って接してほしいと思う。神がそんなふうにして自分を見ていて、そんなふうに接してくれるということはどれほどうれしいことだろうか。
しかしその神が、他の者に対して、まして自分の嫌いな者に対しても同じように恵みと憐れみを持って接することが気に入らないというのだ。私には恵みと憐れみの神でいてほしい、でも私の嫌いなあいつに対しては怒りと裁きの神になってほしい、そんなことを願う。自分だけを特別に大事にしてほしいということなのだろう。
とうごま
神はそこでヨナのためにとうごまを生えさせる。しかしとうごまは一夜にして枯れてしまったという。
とうごまは4mになることもあるという木で、手の形のように先が分かれている大きな葉があって、イチジクの葉に似ていが、その大きな葉で陰ができる、と説明があった。
その陰のお陰でヨナは強い日差しから守られて喜んだ。ところがそのとうごまを失うことで強い日差しに苦しみ死ぬ方がましだと言っている。どうして枯れてしまったんだ、ということだろうか。せっかく気に入っていたのにどうしてだ、ということだろうか。
神はどうしてそんなに怒るのか、とヨナをなだめる。おまえは一夜にして生じ、一夜にして滅びたとうごまのことを惜しんでいるではないか。ならば私が12万人以上いるニネベの人たちと無数にいる家畜を惜しむのは当然ではないか、という。
ヨナがそれを聞いてどう思ったか、どう答えたかは書かれていない。多分ヨナはとうごまの事を経験することで神の思いを理解したのだろうか。
放蕩息子の兄
イエス・キリストが、放蕩息子の兄が、弟が帰ってきたとき、そして親父がそのわがままでろくでなしの弟を大事に迎えたことで怒って家に入らなかったという話をされたことがあった。
自分は自分のしたいことも我慢して親父のために働いてきたのだ。楽しみも押さえて親父と一緒に働いてきたんだ。なのにどうしてあのろくでなしの弟のことを親父はそんなに大事にするのか。どうして俺よりもあいつなのだ、そんな思いがあったのだろう。
神の愛
一所懸命に従ってきたものだけを大事にすべきだ、一度悔い改めた位で簡単に赦してはいけない、という思いがヨナにも放蕩息子の兄にもあったのではないかと思う。
イスラエルの人達は一所懸命に神を見上げて神の命令を守ってきたではないか、守れないこともあったが少なくとも守ろうとしてきたではないか、なのに何もしない、神の言葉を聞いてもない聞こうともしてこなかったあのニネベの民をどうしてそんなに大事にするのか、そんなことをしてはいけない、そんな気持ちがヨナにはあったのではないか。
私たちにも、こんなに一所懸命に聞いているんだから、こんなに一所懸命に奉仕しているんだから、こんなに一所懸命に礼拝に来ているんだから、だから神は私のことを特別に大事にしてくれるはずだ、そんな思いがあるのではないか。だから一所懸命にしている私たちの方を、教会の外の人よりも神は大事にしないといけない、という気持ちがあるのではないか。
しかしどうもそうではないらしい。そんな気持ちでいるから、外の人のことを大事にする神が憎らしく思えてくる。
しかしそれは神の愛の大きさを自分で勝手に決めているようなものなのだろうと思う。でも神の愛は私たちが思っている以上に大きいようだ。大きすぎて訳が分からない位らしい。
私たちはヨナの側から神を見ることが多くて、どうしてあんな奴のことを神は大事にするのかと思うことが多い。けれど逆にニネベの側から見ると、どうして神はこんな自分達を神は憐れんでくれるのかということになる。方向転換したらすぐに、それまでのことがなかったのかのように大事にしてくれるのだ。そんなありがたいことはない。
自分が神に従えていないと思うとき、自分の駄目さに打ちのめされるような時、私たちは神から好かれない、大事にされないと思いがちだ。こんな自分を神は大事に思うわけがないと思う。愛してくれるわけがないと思う。でも神の愛は私たちが思うよりはるかに大きいようだ。神さまは私たちが思っているより遥かに私たちのことが好きで大事で、そして心配なようだ。
好きだから、大事だから、悪から離れて正しい道を歩んで欲しい、豊かな人生を生きて欲しいと願っているのだろう。その神の思い、神の愛は私たちには大きすぎて計りがたいものがあるようだ。
こんな自分は駄目、こんなあいつは駄目、そうやって自分のはかりをもって判断というか評価する。そして神も同じように思っているに違いないと思いがちだ。こんな自分を神は大事になって思っていない。でも神の愛はどうやら私たちの思いよりもはるかに大きいらしい。ニネベの人達を憐れむ気持ち、放蕩息子の帰りをただただ喜ぶ気持ち、神の気持ちは、神の愛は私たちには大きすぎて分からない程だ。そんな大きな思いで私たちは愛されているということだ。