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礼拝メッセージより
「新しい世界へ」 2012年11月4日
聖書:ヨナ書 1章1節-2章1節
ヨナ
なんだか不思議な話し。列王記下14章25節にヨナという預言者が出てくるそうだが、そのヨナとこの物語がどれほど関係があったかはよくわからない。2章では巨大な魚の中に人が3日間いたなんてことが書かれていて、おとぎ話をいう感じがする。
ヨナは列王記によると北イスラエル王国の預言者。そのヨナに神が命じる。ニネベへ行け。ニネベはアッシリアの首都。アッシリアはイスラエルの敵。
ヨナは思う、冗談じゃない、あんなところへ行けるか。神は、彼らの悪はわたしの前に届いていると言っているが、ニネベの悪に対して神がどうしようというのか、神がニネベの人たちに何を言おうとしているのか、詳しくは分からない。悪がはびこっていたことでただ裁きを告げることなのか。それとも悪を悔い改めさせようとしているのか。
何にしてもヨナは、そんな敵の町のことなどには関わりたくないといった感じでヤッファに向い、そこからタルシシュに向かう船に乗り込んだ。ヤッファというのは地中海岸にある港町で、タルシシュの場所はスペインの町ではないかという節もあるらしいけれどはっきりとはしない。しかし、主が行くようにと言われているニネベはイスラエルの北東の方角になり、船に乗って地中海へ出て行くということはヨナはニネベとはまるで反対方向へ向かったということになる。
それも人々に紛れ込んで神から見つからないように逃げようとしたと書かれていて、なんだか神がヤッファの港にいて見張っている中を、ヨナがこそこそと隠れて船に乗り込んでいるようで面白い。そしてうまく船に乗ることができた。ヨナは神に見つからずにうまく逃げられた、はずだった。
嵐
ところが神は嵐を起こしてしまう。船乗り達はあわててそれぞれ自分達の神に助けを祈りつつ積み荷を捨ててなんとかその嵐を乗り切ろうとした。船乗り達は主を信じるユダヤ人ではなく異邦人だったということだ。しかしヨナは船底で寝ていた。他の者たちが大騒ぎしている中で、ヨナは一人船底でぐっすり寝込んでいた。
ヨナは自分のせいで嵐になったことを、この時点でもう分かっていたということなんじゃないかと思う。神の命令に従わないで神から逃げている、それを神が許していないための嵐だということがよく分かっていた。だから船長から、起きておまえの神に祈れ、と言われても祈らない。祈るも何も、神に逆らって神から逃げているんだから今さら祈れるわけがないという気もする。
けれども他の人たちにとってはどうしてこんな嵐に遭うのかということが分からないので、誰のせいで嵐が起こったのかということでくじを引くことにしたらしい。そうすると見事にヨナにあたった。ヨナにとっては当たるべくして当たった、というところだったのだろう。
ヨナは自分を海に放り込めば嵐は収まると告げる。しかし船乗り達はそれを聞いてもなんとか自分達の力で陸に着こうと努力する。彼らは信仰的であり思いやりもある人たちだ。外国人であるヨナに対しても、それも神の命令に逆らい、神から逃げてきたというのに、ヨナの命をなんとか救おうと努力している。しかし結局は駄目で、仕方なくヨナを海に放り込むことになり、その時には主に祈ったという。ヨナを海に放り込むのは仕方がないことなんですから、このことで自分たちを責めないで下さいと祈ったという。本来それぞれに神を信じているはずの彼等が主に祈ったというわけだ。
ヨナを海に放り込むと嵐は見事に収まる。そこで人々は主を恐れ、いけにえをささげたなんてことも書かれている。
一方、海に投げられたヨナはそのまま海の藻屑になるはずだった。ところが神は巨大な魚に命じて海に落とされたヨナを飲み込ませる。そしてヨナはその魚の中で三日三晩を過ごす。そこで彼は祈った、というのが2章のところになる。
逃亡
なぜヨナは素直にニネベに行かなかったのか。
アッシリアは北イスラエルを滅ぼし、南ユダにも迫った国。イスラエルから見れば悪の枢軸というような所だ。しかしそんな所へ神から行けと言われても、そう素直にいけるものではないだろう。しかもアッシリアは征服する時に残虐行為を行って、周囲の見せしめにしたいた。周囲の民は、恐怖によってアッシリヤに降伏していった。征服する民の手足を切り、目を抉り出し、また捕え移す時は鉤を口につけて引いて行ったり、また見せしめに人間串刺しを行ない、また生きたまま皮剥ぎを行ったりしていたそうだ。
いくら神の命令でもそんなところへは行きたくないと思っても不思議ではない。冗談じゃない、そんなとこ行けるか、という思いでタルシシュへ向かったのだろう。
とにかく遠くへ逃げてしまえ、ということでタルシシュへ向かったのだと思う。ニネベへ行って神の言葉を伝えるなんて、ありえない、想像もできないことだったということなんだろうと思う。
ところが神はヨナを逃がさなかった。ヨナは自分が乗り込んだ船が嵐にあった時、もうそれが神の仕業であるということを感じていたのだろうと思う。嵐が自分のせいであるということをほとんど分かっていたのだろう。くじが自分に当たったときには、やっぱりなと思ったことだろう。
ヨナは神の命令から逃げようとしたけれども逃げられないということを知って、もうどうでもよくなったのではないか。神の命令に背いて神から逃げようとしたけれども逃げられない、だからといってではニネベに行きましょう、とはやりなかなかならないだろう。神の命令には従いたくない、しかし逃げることもできない、ならばもう死んだ方がましだ、それも仕方がない、ということだったのではないか。だから自分から海に捨てればいい、と言ったのだと思う。
あきらめない
ところが神はそのままヨナを殺す事はしなかったというのだ。大きな魚を使ってヨナを守ったというのだ。神の命令に背き、神から逃げようとして逃げられず、もうどうでもいい、死んでもいい、と思っていたであろうヨナを神は守った。かなり荒っぽい方法ではあるが、神は自分のところから逃げようとするヨナのことをまだあきらめてはいない。なんとかヨナを呼び戻そうとする。なんとしてもヨナを連れ戻そうとする。蛇ににらまれたカエルのように、神に魅入られたら逃げられない、ということのようだ。
新しい世界へ
しかし自分が敵と思っている人、しかも残忍なことをしている奴等の所へ行くというのはやっぱり大変なことだ。異邦人は裁かれるべきだ、あんな奴らは滅ぼされても当然だ、神はそんな奴等のことを心配なんかするわけがない、ヨナはそう思っていただろう。多分ヨナだけではなくユダヤ人はみんなそう思っていたんだろう。
ニネベへ行って神の言葉を伝えよということは、そんなヨナやユダヤ人たちの思いを覆すような命令だった。自分達は主なる神に選ばれている民、この神は自分達だけの神、自分達だけの味方、というような思いが持っていたであろうヨナにとっては、神がニネベの人達のことを気にかけているということは天地がひっくり返るような事でもあったのだろうと思う。そんなことはあってはならないことだったのだろう。絶対に認められない、認めたくないことだったんだろう。
神の命令は、そんなヨナの思いを打ち砕く命令だったように思う。自分の思い、信念を打ち砕かれるということはとてもつらく大変なことだ。しかしそれはヨナに新しい世界を見せるため、新しい世界へと招き入れるためでもあったのだろう。ニネベへ行くなどという思いもよらないことを通して、ヨナは新しい世界を見、またそれまで知らなかった神の大きさ、神の思いの大きさ、愛の大きさ、そんなものに触れていくことになったのではないかと思う。
思いもよらないとんでもない命令、神はヨナを新しい世界へと導いていったのだろう。
神は私たちにも、私たちを新しい世界へ招こうとして、新しい世界を見せようとして、私たちにもそれぞれにつとめを任せようとされているのではないか。
神から直接命令を聞くことはあまりないと思うけれど、いろんな人を通して、神は私たちにもこれこれをしなさい、と言われているのではないか。めんどくさい、しんどい、いやだ、と思うようなことが多いのかもしれない。でもそんな面倒なことを通して、神は私たちも新しい世界へと招いておられるではないか。そんな神の命令を私たちも聞いていきましょう。