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礼拝メッセージより
「嘆くな、泣くな、悲しむな」 2012年10月28日
聖書:ネヘミヤ記 7章72節b-8章12節
苦しみ
バビロン補囚はイスラエルの人たちにとっては苦しい出来事であった。自分たちが外国に捕虜として連れて行かれた。そしてその国では外国人として扱われていたことだろう。長い間にはその土地で成功する者も中にはいただろう。しかし多くのイスラエル人にとっては自分たちの国を無くし外国人に支配されるという苦しい時期だったに違いない。
またイスラエル人にとっては屈辱の時でもあったのだろう。自分たちの神である主、その主は自分たちの先祖をエジプトから導き出し、カナンへと導かれた主である。そしてイスラエル人たちはその主から選ばれた民だったのだ。主に守られ愛されていた民であったはずであった。しかしその主の神殿も破壊され、国もなくなってしまったのだ。自分たちこそ神に選ばれた特別の民であると自負していたであろうそのイスラエルが、現実には他国に支配され、神殿も破壊されてしまっていた。そんな屈辱の時代でもあった。
回顧
イスラエルは神との契約を交わした民であった。その民がどうしてこんなことになってしまったのか、どうしてこんな苦しみに会わねばならないのか、どうしてこんな屈辱を受けねばならないのか、彼らはバビロン補囚を経験する中で考えたようだ。
そこで気づいたのが、自分たちが神との契約を破っていたことだった。その反省から律法はまとめられ、旧約の最初にあるモーセ五書と言われる創世記から申命記までがこのころに完成していたようだ。つまりバビロン補囚を経験して、自分たちの国がなくなり苦しい目に遭ったことを通して、自分たちの過去を振り返り、自分たちと神との関係の中で大事にすべきものは何だったのだろうかと考えた。その結論が、神との関係が切れていること、神の言葉を聞いてこなかった、神の命令を聞いてこなかった、神から与えられた律法を守ってこなかった、ということだった。そこでその律法をみんなが知り守るためにもこの律法をまとめておく必要を感じたのだろうと思う。
再発見
しかしどうしてそんな大事な律法を守らなかったのだろうか。それほど大事なものをどうしてそれまで守ってこなかったのだろうか。
イスラエル人にとってはそれは当たり前のことになってしまっていたからかもしれない、と思う。どれほど大事なものでもそれがずっとあることでその大事さがわからなくなる。健康を無くして初めて健康の大切さを知る。家族を亡くして初めて家族の大切さを知ることがある。当たり前にそこにあることでその大切さがだんだんとわからなくなる。イスラエル人にとって律法はそんなものになってしまっていたのかもしれないと思う。祭りや行事も、最初はそのものの持つ意味を知り、感じながらしていたであろう。しかしそれを繰り返すうちに、何のためにやっているのか、どんな意味があるのか、そんなことがだんだんとどうでもよくなっていく。何のためにするか、どういう意味があるのか、というよりも、どういう風にするのか、どういう格好でどういう順番にするのか、あるいは何をしてはいけないのか、なんていうことの方に関心が向く。
伝統的な行事ほど、こういうときにはこれこれこうするものです、と細かいことにまで口を出す人が現れやすい。そして昔ながらに、昔と同じにすることが大事だ、というようなことになりやすい。しかしそうすることにどんな意味があるのか、なんのためにするのか、ということがだんだんとわからなくなり、ただ格好だけは昔ながらに、ということになると、やがてはそんな意味のないことはしなくてもいいではないかと、その行事そのものがすたれてくるだろうと思う。
そもそもただの行事ということになってしまうことで、その意味よりもやり方というか形の方が問題になってきて、それをすることにどんな意味があるのか、ということはどうでもよくなってしまうような気がする。
過ぎ越し祭をはじめいろんな行事があったと思うけれど、その行事を滞りなく行うけれど、いつしか神との関係がなくなっていたんじゃないかと思う。
再出発
神殿と城壁を再建した後、イスラエル人は律法を聞いた。エズラや他のレビ人が律法を読んだ。レビ人は律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた、と書かれている。その意味とは、神が自分達に語りかけているということだったんじゃないかと思う。ただ守らなければならない掟ということではなく、それが神と自分達との関係を保つためのものであるということを説明したのではないかと思う。
希望
民らはそれを聞いて泣いていたという。どうして泣いていたのかは書かれていないが、自分たちがいかに律法を守ってこなかったかということを思い知らされたということもあるのかもしれない。でもそれ以上に、今まで律法の文言ばかりを気にして、ただの掟として聞いてきたけれど、そこに神の意志、神の思いがあったということを知らされたことで、感激して泣いたんじゃないか、という気がする。
だからこそネヘミヤとエズラは民に向かって、今日は主にささげられた聖なる日であるから嘆いたり泣いたりしてはならない、よい肉を食べ甘い飲み物を飲みなさい、それが無い者には分けてやりなさい、と言ったんじゃないかと思う。
さらに、主を喜べ、主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である、と言う。
律法を聞くことで嘆き泣いてしまう民がいる。自分たちの罪を知り、間違いを知らされることで落ち込んでしまう人もいただろう。しかし実は律法はただ間違いを指摘し糾弾するためのものではない、ということだ。自分たちの本来のあり方を示すもの、神との関係の中に生きることを示すものであろう。だから律法を聞くことは現状を嘆くためのものではなく、喜ぶためのものなのだ。律法を与えられた主を喜び、主との神との関係の中に生きることの出来ることを喜ぶためのものなのだ。
力
主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である、と言われる。私たちは自分の力のなさ、だらしなさを嘆く。そんな自分だけを見てしまうことが多い。律法を聞いた民も自分たちの有り様を嘆いていたのではないか。しかしそれよりもむしろ神を喜べという。自分たちのだらしなさや罪深さにも関わらず、その自分たちに律法を与えられた神を、自分たちと共に歩んで下さる神を、自分たちを憐れんで下さっている、愛して下さっている神を喜べ、と言うことだろう。そして神を喜ぶことこそが力の源である、というのだ。神が私たちを大事に大事に思ってくれている。お前は大事なのだ、今のお前が大事なのだ、そう言ってくれている。その神を見上げること、そのことを喜ぶこと、その神を喜ぶこと、それこそが私たちの力の源であるということだ。
私たちは自分に何が出来るとか出来ないとかいうことにばかり注目しがちである。何かが出来たときには自分は優れていると思い、何かが出来なかったから自分はだめなのだと思う。あるいは周りの人を見ても、あんなことが出来るあの人はすばらしいと褒め称えて、こんなことも出来ない自分はなんとだめな人間だろうと思う。あるいはこれができるのは自分だけだと思うことで誇りに思い、周りの者を見下げたりする。いずれにしても私たちは自分や周りの人を見ることに忙しくなりがちである。そしてその中で自分の価値を探そうとすることが多い。人より優れているからいい人間、人より劣っているからだめな人間と思う。
確かにそういう見方で自分の位置を確認することはある。しかし人間の価値はそれだけで決まるのではない。もしそうなら周りに誰がいるかによって人間の価値が上がったり下がったりする。確かにそう言う面もあるだろう。しかし人間の価値はそれだけで決まるのではない。神からどう見られているかということによって価値が出てくる。そして神は私たちを価値あるものと見ている。あなたたちは尊い存在である、と神は言われているのだ。私たちは自分の駄目さをいやというほど知っている。そしてそのことで元気をなくしてしまう。しかし神はあなたは尊い、と言うのだ。お前は私にとっては大事な存在だと言うのだ。そういう神の目から見た見方で自分自身を見つめ直すことが大事なのだろう、と思う。神から大事に見られていること、そこに力が湧いてくる。
私たちは自分で力を振り絞って神に従い、神に大事にされるような神に認められるような人間になるのではない。何もない何もできない自分を神が大事に思ってくれているのだ。そのことを知ることで力が湧き出てくるのだと思う。そこで神に従う力が出てくるのだと思う。だから主を喜ぶことが力の源なのだ。
嘆き、泣き、悲しむしかないような現実の中に私たちは生きている。しかしそんな私たちに対しても、そんな現実だけを見てはいけないと言われているような気がする。嘆くのを、泣くのを、悲しむのを止めて、神を見なさい、神の声を聞きなさい、そう言われているのではないか。