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礼拝メッセージより
「貧しくなる」 2012年10月21日
聖書:ネヘミヤ記 5章1-13節
マネー
日本も貧富の差が広がってきているらしい。金持ちはどんどん大金持ちになっていき、正社員になれない若者は、働いても働いても貧しい生活から抜け出せないと聞く。貧富の差はなくならないで広がる方向に向かっているらしい。
お金がなかったらいいんじゃないかと思うときがある。給料もお金ではなく現物支給だったら、1億円分の現物を支給されても困るだろう。その分毎日小分けにしてくれたとしてら、1日は27万円くらいになると思うけれど、たとえば毎日毎日20万円分くらいの食事が家に届くとなると面白いだろうなと思う。山のようなパンとご飯と肉と野菜と魚とが毎日毎日届けられたら、もうやめてくれということになるんじゃないかと思う。大きな倉庫でもあれば置いておくこともできるかもしれないけれど、それもだんだん腐ってきてなんて想像すると面白い。
現物支給だと余計な物を貰うと邪魔になりそうな気がするけど、お金だといくら貰ってもほとんど邪魔にならない。しかも銀行振込だと通帳の数字がいくら増えても何にも邪魔にはならない。だから何億でも何十億でもいくらでも貰えるんじゃないかと思う。経済の話しはよく分からないけれど、お金があるから貧富の差がどんどん大きくなっているんじゃないか、なんて考えたりしている。
危機
ユダヤ人たちをバビロンへ捕囚していたバビロニアの国は、ペルシャという国に破れ、補囚されていたユダヤ人たちの多くが、ペルシャ王の許可が出てユダの地に帰ったようで、彼等はエルサレムの神殿を建て直した。中にはユダの地に還らず補囚されていた土地に住み着く人もいたようで、その中の一人であるネヘミヤは、ペルシャの王の献酌官という、王の飲食物の毒味を任されるような高い地位についていた。ネヘミヤはエルサレムの城壁は崩れたままであるということを聞きペルシャの王に願い出て、ユダの総督としてエルサレムや行きエルサレムの城壁を修復することとなった。
周りからの妨害などもある中で、ネヘミヤは民を励まして城壁を修復していた。そんな中で今度はユダヤの貧しい民の中から不満が出て来た、というのが今日の箇所だ。
ユダの土地に帰ることは出来たけれども、ペルシャの国の支配下にあるわけでペルシャへの税金も納めないといけない。そして丁度飢饉があったらしく、そうなると食べていくためには、畑もぶどう園も家も抵当にいれないといけない、子供も奴隷として売らなければならない状況だ、ということだった。
後の話からわかるように、そんな状態でも金持ちは普通にお金を貸して、普通に利子も取っていたようだ。同胞の仲間がくるしい思いをしているのに、自分は前と変わらず淡々とお金を貸していたということのようだ。
ネヘミヤはそのことを聞いて憤りを覚え大きな集会を招集してみんなに言った。バビロン捕囚からやっと解放されて還ってきた、なのに今度は自分達で自分達の仲間をまた奴隷にするのか、それはよくないということのようだ。
ネヘミヤはが自分も兄弟や部下に貸しているけれどもその負債は帳消しにする、あなたたちも負債のあるものに返しなさいと言うと、それに従った。
貧しくなる
最近テレビでは震災復興の財源から、震災に全然関係ないような事業に予算がついている、ということを盛んに騒いでいる。東北で被災した人達のために使うのかと思っていたら、沖縄の道路をなおすためにも使うなんてことも言っていた。あるいは福島の原発事故は全然収まってもいないけれど、また新しい原発を作ることになりそうだ。原発を作ることでその町には交付金が入り、工事をする業者も儲かり、その人達が町にやってくることで町のお店も儲かる、ということらしい。だから原発をつくることに賛成だという人もいる。事故が起こったらどれだけ大変なことになるということはどうでもいいのか、と思うけれども、やっぱり生活がかかると大変なんだろうな。
でもやっぱりそこで苦しんでいる人達のことは放っておいて、相変わらず金儲けのことに目が向いているような気がしている。目の前の人が大変な状況になっているのに、自分は以前と何も変わらず金儲けに勤しんでいるかのような気がする。
お金を貸したらそれを取り戻す、返せなかったら担保となったものを取り上げるというのは正当な権利だ。でも相手が大変な時に、生きるか死ぬかというような時に、その権利を主張するだけでいいのか、とネヘミヤは訴えたのだろうと思う。
負債を返すということは、正当な権利を放棄するということで、それは本来自分の持ち分であるものを与えること、つまり自分が貧しくなるということだ。
自分が貧しくなることで相手を救うことができるということなのかもしれない。自分が貧しくなるという覚悟をもつことで初めて人を救うことができるような気がする。
弱く苦しんでいる友のことを考えること、自分が貧しくなることで友を助けること、それこそが神の民なのだと思う。
イエス
それはまさにイエスの生き方そのものだと思う。イエスは貧しく弱い者のところへ、弱い貧しい姿で来られた。そして弱く貧しい私たちと共にいてくれている。そしてそんな私たちに、「私はあなたが大事だ、大切だ、いつも共にいる」と言われているのだろう。そして私が弱い貧しいあなたの友となったように、あなたも弱く貧しい者の友となりなさい、と言われているのだろう。