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礼拝メッセージより
「再出発」 2012年10月7日
聖書:エズラ記 3章8-13節
帰還
バビロニアの国はペルシャによって滅ぼされた。ペルシャは今のイランの辺りの国で、ペルシャの政策はそれぞれの民族の独自性を認めるようなところがあったそうで、バビロンへ補囚されていたユダヤ人たちも故郷へ還るようにという命令が出たそうだ。第1回目のバビロン捕囚から65年後、エルサレム陥落から47年後のことだそうだ。
エズラ記には、ユダヤ人たちが故郷へ帰還し神殿を再建した時のことがまとめられている。
帰還
50年かそれ以上に渡って補囚されていたということは二世代位は変わっているということになる。故郷へ還ってきたわけだけれど、実際に故郷を知っている人の方が多分少なかったんだろうと思う。若い世代の人にとっては初めての土地への移住でもあった。しかし敢えてそこに還っていこうとしたということは、自分達の土地は神から与えられたカナンの土地であるという意識があったからであって、それは自分達がかつて主なる神によってエジプトから助け出され、約束された土地を与えられ、そこに自分達の国を持ち、でも滅ぼされて補囚されてしまっている状態なのだということ、そして補囚されてしまうことになったのは、神に従うことをせず、神の命令に従わなかったためである、ということを語り伝えてきていたということだろう。
国が滅びてしまったという原因は、直接的には戦いに負けたということだ。どこにも負けない力をつけて戦いに負けなければ国は滅びることはなかった。けれども、ユダヤ人たちはそれよりも、自分達が神に従ってこなかった結果として国が滅ぼされ、補囚されてしまったと考えた。
だから帰還した彼らは祭壇を築き献げ物を献げた、と3章の前半で書いている。その後、ペルシャ王の許可を得て資材を調達しいよいよ神殿の再建に取りかかりまず基礎を据えた。それが今日の聖書の箇所だ。
涙と喜び
基礎を据えた時、昔の神殿を見たことのある人達は大声をあげて泣き、多くの者が喜びの叫び声をあげた、と書かれている。
昔の神殿を見たことがあるということは、かつての豪華絢爛だった神殿が破壊されていったことも知っているということだろう。外国に侵略され、国が滅び、補囚されるという苦しい時代を生き抜いてきた人達である。
新しい神殿の基礎を据えたことで、そんなかつての苦難を思い出し、これから新しい栄光へと進んでいるという、ただ嬉しい喜ぶだけではない、いろんな思いがあっての涙だったんだろうと思う。
希望
国が滅ぼされ、外国へ補囚されるというとんでもなく苦しい状況を彼等は耐え抜いた。その苦しみの中で彼等は自分達のことを省みた。どうしてこなったのか、どうしてこんなことになったのか。
苦しみに会うとき、私たちは自分のことを省みるよりも、周りの所為だと思うことが多いのではないかと思う。あいつが悪い、こいつが悪い、社会が悪い、政府が悪いとか、妻が悪いとか夫が悪いとか、或いは教会が悪い、牧師が悪いとか。自分が悪かったからとか、自分が間違っていたとかなかなか思わない。
でもユダヤ人たちは自分達が神に従っていなかった、自分達が悪かったと気付いた。それはすごいことじゃないかと思う。そして自分達の間違いに気付いたことで再出発できていったんじゃないかと思う。
そして見えない神に従うことを決意したことで、何十年もの間の苦しみを耐え抜くことが出来たんじゃないかと思う。いつ終わるともわからない補囚を耐え抜くのは大変なことだ。状況がよくなる兆しも見えないままに何十年も経っている。しかしこれからは神に従うのだという決意を持って彼等はその期間を耐え抜いてきたんだろう。そんな決意があったから耐え抜けてこられたんじゃないかと思う。
そしてついにカナンの地に帰還し神殿の基礎を据えることができたわけだ。自分達を取り巻く状況が変化していることを目の当たりにすることができた、神の導きの一端を目にすることができた、その喜びはひとしおだっただろうと思う。そこでの涙だったんじゃないかと思う。
見えない神に従うことで彼等は苦難を耐え抜き、希望を持ち続けることができたんだと思う。
私たちの見える現実も厳しい。でも私たちも神に従うことで、神に聞くことで希望を持つことができるに違いない。