前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「バビロン捕囚」 2012年9月30日
聖書:列王記下 24章10-20節
ヒゼキヤ
南ユダ王国のヒゼキヤ王の時代に北イスラエル王国は北にあるアッシリアという国に滅ぼされる。そして南王国もこのアッシリアの脅威にさらされる。そこでヒゼキヤ王は神の目に叶うことを行った王と言われている王だったが、彼が病気でもうすぐ死ぬという時に預言者イザヤに祈って貰い寿命が15年延びることになった。
ユダと同じようにアッシリアに苦しめられていた東の方の国バビロンの王から、ヒゼキヤの見舞いとして使節団がやってきたとき、ヒゼキヤは使節団に宝物庫や武器庫をはじめ国中のものを見せたために、イザヤからそれらのものはやがてバビロンに持ち去られ、息子達の中にも連れて行かれることになると告げられる。
王たち
主の目に叶うと言われたヒゼキヤの後にマナセ、アモンと主の目に悪とされることを行った二人が王となる。そしてその後再び主目にかなうヨシヤが王となり、ヨシヤは神殿で見つかった律法の書に従って宗教改革を行う。
またアッシリアとバビロンが戦いが忙しい隙に、かつての北イスラエルの地域まで領土を拡大する。ヨシア王はバビロンに協力的だったが、アッシリアの首都ニネベががバビロンに攻められたために、アッシリアを助けにいくエジプトのファラオ・ネコを迎え撃とうとして、メギドというところで戦士してしまう。
そこでその子ヨアハズが王となるが、エジプトのファラオ・ネコによってヨアハズを幽閉し、代わりに弟エルヤキムを王として、名前をヨヤキムと改めさせ、貢ぎ物を課す。しかしヨヤキムはファラオ・ネコがバビロンに敗れると、バビロンに服従する。しかし後にまた反逆してエジプトにつき、結局バビロンの王ネブカドネツァルに攻められて死ぬ。
代わりに立てられたヨヤキムの子ヨヤキンは王位三ヶ月で、エルサレムを占領したバビロンの王ネブカドネツァルによって、第一回の補囚として、王族や有力者、また神殿や王宮の宝物と共にバビロンに連行された。
かつてヒゼキヤ王にイザヤが語ったとおり、大事なものはみんなバビロンに持ち去られてしまった。
バビロンは、ヨヤキンの代わりにおじのマタンヤを王として名前をゼデキヤと改めさせた。ゼデキヤは預言者エレミヤの度々の警告にもかかわらず、エジプトに近づき、バビロンに反逆してバビロンに攻め込まれ、「王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った」(列王記下25章6-7節)。これが第二回目の補囚となり、ユダ王国は滅亡した。
間違い
列王記の最後はバビロンに補囚されたヨヤキンが解放されたことが書かれている。つまり列王記がまとめられたのはバビロン捕囚の後ということになる。
国が滅びバビロンに補囚されたことで、どうしてこんなことになってしまったのか、いったい何が悪かったのか、そのことを考えながらまとめられたということだ。
アッシリア、バビロン、エジプトという大国に挟まれた中で、大国の状勢をみながらどう振る舞って生きていくのかというのはイスラエルにとって大きな問題だったようだ。しかしそんな政治的、軍事的なことだけが問題だったわけではないと列王記は語っているようだ。
そんなことよりも神に従っているかどうか、神の命令をきいているのかどうか、実はそこが問題だったのだ、そこが間違っていたのだというのが列王記の視点のようだ。だからこそ、神の目にかなったとかかなわなかったという見方で王を区別している。
ではどうしてそれが問題なのだと思ったのだろうか。どこにも負けない力を持つこと、軍事力を持つこと、そうすることで国が安泰になる、と考えることが普通ではないかと思う。もっと力を持っていれば国が滅ぶこともなかったと考えるのが普通ではないかと思う。なぜ神に従わなかったことが国が滅ぶことになった原因なのだと思ったのだろうか。
草は枯れ
聖書教育にこのようなことが書いてあった。エルサレムには見事な神殿があり、そこには豪華な宝物があった。しかし建物の美しさやすばらしさに目を奪われて神さまを想う気持ちが遠く離れていった。私たちの神殿はすばらしい神殿だ、そこに住む神さまも素晴らしい神さまだ、その神さまを礼拝している私たちも素晴らしいに違いない、と祈っていたんじゃないかと。
けれどそこにバビロンの軍隊がやってきてあらゆるものを持ち去ってしまった。そこには神殿の残骸が残るだけという有り様だったのだろうと思う。
立派な神殿や豪華な宝物など、目に見える物に心を奪われることによって、本当に大事なことが見えなくなっていた、目に見えない本当に大事なことを忘れていた、バビロンに補囚されていた人達は気付いたのだろう。それまで手にしていたものをなくしたからこそ気付いたのかもしれないと思う。
これも聖書教育に書いてあったけれど、「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は/とこしえに変わることはない。」(イザヤ書40:8)という言葉がある。
目に見える物はやがて朽ちていく。でも神の言葉は朽ちることはない。本当に大事なものは朽ちていかないものだ。
新約聖書にも「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二 4:18)とある。
なくして初めて気がつくことがある。苦しんで悲しんで初めて気がつくことがある。本当に大事なことは案外そんな時に気がつくのかもしれない。