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礼拝メッセージより
「未来」 2012年9月16日
聖書:列王記下 8章7-15節
ドラえもん
今年の9月3日はドラえもんの生まれた日、なんだそうだ。ドラえもんはタイムマシンで過去に行ったり未来に行ったりしているみたいだけれど、タイムマシンは作れるのだろうか。ありえないような気がするけど、でも未来のことを知りたいという気持ちは確かにある。テレビでも、運勢とか占いとかよく見かける。それだけ未来を知りたいという思いが強いんだろうな。
エリシャ
イスラエルの国が北と南に別れてそれぞれに王を立てて王国となった。北イスラエル王国の王たちは、かつて自分の先祖をエジプトから救い出してくれた主なる神を信じないで、原住民が信仰していたバアルやアシェラの神を礼拝していた。そこに登場したのが預言者エリヤで、主こそ真の神だと語り王たちに対抗した。
そのエリヤの後継者となったのがエリシャという人だった。この人は列王記下を見るといろいろな奇跡を起こしたことが書かれている。
エリコの町の水源を塩で清めた。 (2:19-2:22)
油を増やして寡婦とその子供たちを貧困から救った。 (4:1-4:7)
シュネムの婦人の子供が死んだ際、その子を生き返らせた。 (4:18-4:37)
毒物の混入した煮物を麦粉で清めた。 (4:38-4:41)
パン二十個と一袋の穀物を百人の人間が食べきれないまで増やした。 (4:42-4:44)
アラムの軍司令官ナアマンの皮膚病をヨルダン川の水で癒した。 (5:1-5:14)
水の中に沈んだ斧を浮き上がらせた。 (6:1-6:7)
その名声は外国にも知れわたっていたようで、そこで今日の箇所ではエリシャがダマスコ(アラムの首都)に来たときに、「神の人がここに来た」と知らせる者があったのだろう。そしてそれを聞いた病気であったアラムの王ベン・ハダドは、贈り物を持って神の人を迎えに行き、わたしのこの病気が治るかどうか、彼を通して主の御旨を尋ねよ、と命令した。
その命令によってハザエルという人がらくだ40頭分の贈り物を携えてエリシャのもとへ行き、王の病気が治るかどうかを尋ねた。その返事は、「王には必ず治ると言え、しかし彼は必ず死ぬ」と言う事だった。そして何故だかエリシャはハザエルが恥じ入るほどじっと彼を見つめて泣き出した、という。
ハザエルがエリシャが泣き出した訳を尋ねると、ハザエルが王となってイスラエルの人々に災いをもたらすことを知っているからだ、あなたは取手に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ち付け、妊婦を切り裂きます、なんてことを言った。
ハザエルは王の下に帰り、エリシャが言ったように、必ず病は治ると伝え、翌日水に浸した布で王の顔を覆って王を殺し、自分が王となった、という話しだ。
預言
エリシャは何を伝えたかったのか。エリシャは伝えなければいけないことがあるということで出かけたわけではない。向こうからやってきてただ質問に答えただけだ。王の病気が治るかどうかを聞かれ、自分がわかることというか知っていることというか、それを答えただけだ。エリシャには未来が見えているということなんだろうか。そして見えている未来をそのままに語っただけなんだろうか。
エリシャにとって涙を流さないといけないようなことまでエリシャは語らないといけなかったということなんだろう。預言者というより予言者という感じだけれど、本当は語りたくないと思うようなことも語らないといけない人達なのかもしれない。
未来が見えたらどんなにいいだろうと思う。今日の運勢とか占いとかやっているけれど、本当に未来が見えたらどんなだろうかと思う。いい未来ばかりなんてことはありえないわけで、苦しい未来も全部見えてしまったらそれは大変辛いことだろう。未来が見えることで自分に都合の悪いことから逃れられるならばいいけれど、逃れられるとしたらそれは本当の未来ではないわけで。本当に未来が見えるならば今日のエリシャのように涙を流すような場面もいっぱいあるのだろうと思う。
今日は敬老の日の礼拝だけれど、長く生きているということはそれだけいろんなことを経験してきたということだと思う。楽しいことも辛いことも、辛いことの方が多いのかもしれないが、長く生きる分だけいっぱい経験しているのだろう。それを耐え忍んできたということは凄いことだと思う。
何にしても長く続けるということは凄いことだと最近思うようになった。先週からではないけれど、もう少し前から。継続は力なり、という言葉があるらしいけれど、友達の一人が、継続は才能だと言っていた。
クリスチャンも継続するのは大変なことだと思う。ある牧師が、日本のクリスチャンは自分は駄目だ、不信仰だ、あれもできないこれもできてないなんてことばかり言うけれどそんなことはない。日本のクリスチャンは立派だ、この社会の中で、絶対的な少数派で異質な信仰を持ち続けるというのは凄いことだ、というようなことを言っていたように記憶している。本当にそうだと思う。
話しは逸れたけれど、私たちは未来は分からない。分かっているのはやがていつか死ぬということ位だ。でもこれからもいろんな大変なこと、辛いことや悲しいことに遭遇するであろうことは想像できる。
神さまは、そんな大変な辛い悲しいことがらを私たちから全部遠ざけてくれるわけではないようだ。遠ざけて欲しいという思うけれどどうやらそんな願いは聞いては貰えないみたいだ。でも私たちがそんな辛い悲しいことがらをも耐え忍ぶことができるように助けてくれているんだと思う。
苦しいときにも悲しいときにも、どんな時にも共にいてくれる、決して独りぼっちにしない、いつも大切に思ってくれている、愛してくれている、そんな仕方で神さまは私たちを支えてくれているのだと思う。
これからも涙するような未来が待ち構えているかもしれない。けれどもそんな未来をも受けとめていく力と支えを神さまに求めていきたいと思う。私たちも共に涙しながら、そんなお互いを支え合っていきたい、そんな教会でありたいと思う。