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礼拝メッセージより
「わがまま」 2012年9月9日
聖書:列王記上 21章1-24節
置物
小学校の3年か4年位の時だったと思う。隣りに同級生がいて二人で近所の小さい川で遊んでいた。その時直系5cm位の丸くて平べったい綺麗な色のした石の置物のようなものを見つけた。何だろうかと思いつつそれをそのまま近くに投げ捨てた。暫くすると同級生が、綺麗な石を見つけた、と喜んで見せたものを見るとさっき投げ捨てた置物だった。そうすると何故だか無性にそれが欲しくなり、それは俺が先に見つけたんだ、とか勝手なことを言って、いやがる同級生からそれを取り上げて、素直に渡さない同級生に腹を立ててポケットにそれを入れて一人で先に家に帰った。あいつに取られずに済んだなんて思いつつ家に帰って、改めてその置物みたいなものを見てみた。そうしたら、なんでこんな物を取り上げたんだろうと思い、同級生とは気まずくなり全然嬉しくなかった、なんてことがあった。
王
アハブ王は宮殿のそばにあったぶどう畑が欲しくなり持ち主のナボトに譲ってくれるように頼んだ。代わりの畑か、それ相当の代金を払うから、ということで頼んだ。彼は王であったが正当な取り引きをしようと願った。
しかしナボトはその申し出を断ってしまった。先祖から伝わる、神から与えられた土地だから譲ることは出来ない、と。神から与えられた土地なんだからそれを寄こせとは誰も言えないというのがイスラエルの決まりだった。
イスラエルでは、土地は神のものであり、人はそれを神から貸与される。故に売買は原則禁止されていた。
−レビ記25:23「土地を売らねばならない時にも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地は私のものであり、あなたたちは私の土地に寄留し、滞在する者にすぎない」。
アハブ王ももちろんそのことを知っているから無理強いすることもなかったようだ。思うようにいかなかったアハブ王は機嫌を損ねて、腹を立ててしまった。なかなかかわいい王様である。ベッドに寝たままになって食事も取らなかったなんてちょっと弱気な幼い感じもする。
アハブ王の妻イゼベルはこの様子を見てアハブ王にどうしたのかと尋ねると、アハブ王はこれこれこういうことがあったと説明する。イゼベルは「あなたがイスラエルを支配しているんですよ、ちゃんと食事もして元気出しなさい、ぶどう畑も手にいれてあげましょう」なんてことを言う。
アハブ王はどんな人だったのだろうか。どれほど自分に自信を持っていたのだろうか。あまりなかったような気がする。王となってまでも自分の思い通りにいかないことを嘆いている。主体性がないという感じ。自分の考えで何でもできそうな立場にいながら、それを無理に通そうともしない。それだけ自分だけのことではなく国のことを考えているかと思えばそうでもない。妻のイゼベルの言うことにはすぐに従う。
イゼベルにとっては王が自分の国のものを自由にできないわけがないという考えなのだろう。そもそも国のものは全部王のものだという前提があるように思う。戦争の時には日本でも、国民は天皇陛下の赤子である、と言っていたそうだが、国も土地も人も何もかも王のものである、国民はその王の命令に背くなんてことがあってはならない、というのがイゼベルの考えだったようだ。
イゼベルはもともとイスラエルの人ではなくフェニキアという国の人間であり、彼女にとっての王とは多分何でも自分の自由にできる、国の中でただ一人自分勝手が出来る絶対者、言わば神と等しいような存在だと考えていたのではないかと思う。だからであろう、イゼベルは町に住む長老と貴族をまきこんで、ならず者に偽証をさせてぶどう畑の持ち主であるナボトを死刑にしてしまう。イゼベルにとっては王の命令に逆らうような奴は死刑にしても構わないんだという考えだったのかもしれないと思う。
ナボトが死んだことを知ったアハブ王はナボトの土地を手に入れる。イゼベルはアハブ王にどこまで説明したのだろうか。ナボトは死んだから、と言ったとしか聖書は書かれていない。どうして死んだのかとアハブ王は聞いたのだろうか。そんなことはもうどうでもよかったのだろうか。
悔い改め
その時アハブはエリヤに出会う。そこで神の裁きの言葉を聞くことになる。自分たちの悪行をあばかれる。そうするとアハブ王は今度は、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。すぐに自分のしたことを悔いたというのだ。
アハブは主の目に悪とされることをした、と書かれている。彼ほど悪いことをした者はいなかったというほどに。それほど神に従わなかった王だった。しかしそれは妻イゼベルに唆されたからだというのだ。外国の偶像に仕えたことをイゼベルに唆されてしたことだった、ということだ。
妻にそうしろと言われるとその通りにして、エリヤに間違っていると言われるとすぐに悔いる。一体どんな王だったのだろうか。しかし悔いるということも実はなかなか難しいことだ。自分の間違いを認めるというのは実に難しい。その点ではアハブ王は立派かもしれない。
絶対者
王と言えどもやはり人間であり神ではない。王も神に従うべきである、支配者と言えでも自分の勝手に思いのままにしてはならない、神の言葉に従うべきだ、というのがイスラエルの考えだったはずだ。
しかしその王が神に従わずに、神の存在を無視して、あたかも自分が神になったように自分勝手にし放題をするところにいろいろな問題が起きてくる。そのためにまわりの人が苦しめられる。
人が絶対的な力を持つことで、社会がおかしくなるように思う。誰かが神のようになることで、わがままに振る舞うことで周りのものは苦しめられていく。誰かの声が神の声となることでは間違いが正せなくなる。
先の戦争もそんな状況があったように思う。天皇を神として、天皇の命令ということで有無を言わせないことがあったと聞く。戦争のドラマなどを見ていると、上官の命令は天皇陛下の命令だ、という科白をよく聞く。そして絶対服従させられていく。
人間
絶対者はだいたいわがままに振る舞うようだ。権力をもつと自分の都合のいいように振る舞ってしまう。そう言うと独裁者と言われる人たちが好き勝手なことをしていることが思い当たる。でもわがままは独裁者だけではないだろう。自分の権力の振るえる範囲の中で自分勝手に振る舞ってしまうような面がある。それが人間なのかもしれない。
王は国の中で権力を振るい、社長は会社の中で、親は家の中で、牧師は教会の中で勝手気ままに権力を振るってしまうということが起こりうる。小さなグループの中で、つまり自分の力の及ぶ範囲で自分の力にまかせて自分だけのわがままを通しているとすればそれはこのアハブやイゼベルと変わらない。
もし可能であるならば、何もかも自分の思い通りにわがままにしてみたい、周りの人達だれもが自分の命令通りに何でもやってくれたらいいのに、と思う。そんな欲望がある。
人は何もかも手に入れ、何もかも持っていたいと願うようなところがあるのではないかと思う。権力を持つ者はいろんなものを持ちたがるように思う。力任せに何もかもむさぼるように手に入れようとしているように見える。
でも実はそうやって奪うことでは本当の喜びはないようだ。いろんな物を自分が抱え込むこと、財産をいっぱい溜め込むことが人間としての喜びではないようだ。聖書も分けるようにということが言われている。弱い者や貧しい者、小さい者を大事にしろ、と言われる。きっとそこに人間の幸せ、喜びがあるのだろうと思う。
家の中でひとりで威張っていてもやっぱり嬉しくなんかない。周りの家族を怒り飛ばして自分の思うように動かしても全然嬉しくない。そうやって力ずくで自分の言うことを聞く家族を手に入れたとしてもそこには喜びはないだろう。相手から力ずくでなにかを手に入れようとすることではなく、相手に自分からなにかを差し出す、自分のものを分け与えること、そこにこそ喜びがあるように思う。そしてそれこそが神が私たちに勧めていることでもあるのではないか。私たちは手に入れることばかり、そして今あるものを減らさないことばかりに熱中し過ぎているのかもしれない。
人間は神の下に生きることが必要なのだと思う。神をも畏れないところでは一方がわがままに力を奮い、一方はわがままを奮われるだけになってしまう。しかしそこでは相手も自分も幸せにはならない。
人間の自由になるような神ではなく、人間の自由にはできない、人間を超越している神がいることを知ることがとても大事なのだろう。
そして神に造られた者同士として神に聞いていくことが大切なのだろう。受けるよりも与える方が幸いであるというキリストの言葉がある。わがままに振る舞うところではなく、奪うところではなく、分け与えるところ、いたわるところ、実はそこに喜びがあり幸せがあるのだと思う。
石のような置物を奪うようにして手に入れても喜びがなかったように、わがままに力ずくで何かを手に入れたとしてもちっとも喜びはないのだと思う。
教会とは与え合い、分かち合うために集められているのだと思う。ただ神を信じ祈ることだけが大事なのであれば、わざわざ日曜日の朝に集まらなくても一人で祈ればいい。でもこうしてわざわざ集まるのは、神のもとに生きる者として、罪人同士として、共に神に聞き、分かち合い、与え合い、いたわり合いため、そしてそれを通して喜び合うためなのだろうと思う。
最近礼拝の人数も減って、この先どうなるんだろうかと心配ばかりしている。自分の能力と魅力のなさを嘆いている。もっといっぱい来てくれたら、会堂いっぱい来てくれたら、と見たこともない、居ない人のことばかり考えていることが多い。でも今少しの人数でも、一緒に礼拝するように、一緒に聖書を読むように、聖書の言葉を聞くように、一緒に祈るように、この教会に集められている人がいることはすごいことなんじゃないかと今回改めて気付かされたような気がしている。そのことをもっともっと喜んでいいんじゃないかと思った。そんなことも一緒に喜ぶようにと、私たちはこの教会に集められているんだろうと思う。