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礼拝メッセージより
「御目を注いで」 2012年8月12日
聖書:列王記上 8章22-29節
神殿
ダビデの後を継いで王となったソロモンは大国エジプトの王妃と結婚し、強力な後ろ盾を得る。また全イスラエルを分割して、12県制度を採用し、エジプト型の中央集権にします。県知事には、王の娘婿などで固め、王室の食料を一箇月交代で負担させた。
国も強くなり、外国からの貢ぎ物もあり、国内は繁栄し安定する。そこでソロモンはダビデがなしえなかった神殿の建築に着手する。
北にあるティルスという国の王ヒラムと平和・技術条約を結び、イスラエル全土から3万人を徴用しレバノンに送り建築用材を切り出す。この外荷役に7万、石切に8万、監督3300人を投入し、膨大な富と労力、7年の歳月をかけ神殿を建築(5・15〜6・38)する。
その神殿は、幅10m、奥行き30m、高さ15mの石造建築で、内部は木張りと金張りをした豪華なものだった。また、それ以上に豪華な宮殿建築と神殿の備品を調えるのに13年をかけた。
宮殿は「レバノンの森の家」とよばれる、幅25m、奥行き50m、高さ15mとあり神殿以上の豪華さだった。
その神殿に主の箱を運び入れた時に祈った祈りが今日のソロモンの祈りだ。神が約束されていたように、ダビデの息子が神殿を建てることができた、これから後、自分の子孫もも主の御前に歩むなら、イスラエルの王座に着くものが絶やさず、消し去ることがないように約束して下さい、と祈っている。
そしてそれに続き27節で面白いことを祈っている。
「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」
じゃあなぜそんなにいっぱいお金と労力を使って神殿を作ったのだろうか。もちろん神がそこに住むわけではないし、そこにしか神がいないというわけではない。28節では、「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けて下さい」とある。神殿は祈るところとして必要だったのだろうか。そんな気もするけれど、でも神殿がないと祈れないというわけでもない。なぜ必要だったのだろうか。
教会もそうだ。神は教会に住んでいるわけでもなく、教会でしか会えない訳でもない。教会だけが神の領域というわけでもない。教会でしか祈れないというわけでもない。少し話しは違うけれど、ホテルのチャペルでする結婚式よりも、教会堂でする結婚式の方が良い、それは教会堂は祈りが染みこんでいるから、というようなことを聞いたことがある。そんなことで教会は特別なんだろうか。そうだとするとなんだかオカルト映画みたいだなと思ってしまう。
教会が大事なのは、そんな神秘的なことからではなく、やっぱりみんなが集まるから大事なんじゃないかと思う。神の名のもとにみんなが集まるところだから大事、というか、神の名のもとに集まることこそが大事なんだと思う。だから教会堂があるかどうかよりも、みんなが集まるかどうかが問題なのだ。そもそも教会とは建物のことではなく、神の名のもとに集まる者のことを指している。建物がなくても教会であるけれども、人がいなければ建物があっても教会ではない。
そんな神の名のもとに集まる、その場所として教会堂が大事なのだと思う。そこで一緒に集まって神の言葉を聞き、神に祈る、その場所として教会堂がある。
神殿も同じように、そこでは犠牲を献げるというようなこともあったようだが、神の名のもとに集まる場所として神殿を作ったのだろうと思う。
ソロモンは、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください、と祈ったけれど、それはもちろんただ神殿という建物を見つめてくれと言ったのではなく、そこで祈る自分たちのことを見つめてくれと祈ったわけだ。
今私たちは、夜も昼も私たちに御目を注いで下さいと一緒に祈るために、この教会に呼び集められているのだと思う。ただ一人で祈るのではなく、一緒に祈る為に、そして慰め合いいたわり合いながら、一緒に神を見上げ、一緒に神の言葉を聞く為に、この教会に集められているのだと思う。