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礼拝メッセージより
「あなたを養わせる」 2012年8月26日
聖書:列王記上 17章1-16節
アハブの
ソロモン王の死後、イスラエルは南北に別れ、それぞれに王が立てられるようになる。権力争いを勝ち抜いた者が王となっていく様が聖書には書かれている。
16章の最後のところにアハブ王について書かれている。北王国イスラエルの7代目の王。紀元前869年に王になったそうだ。周辺諸国と同盟を結ぶなどして、大国アッシリアに対抗するなどし、国を大きくした。
そういう関係もあったのか、シドン人の王の娘イゼベルを妻に迎えて、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。バアルの神殿やアシェラ像を造り、それまでのどの王にもまして、主の怒りを招くことを行ったようだ。
その怒りの結果が干ばつであった。そしてそのことを告げるためにエリヤがアハブ王のところに遣わされている。
神の言葉
そこに突然エリヤという預言者が登場する。彼はヨルダン川東岸ギレアド出身の預言者でアハブの悪政を見て、北王国の首都サマリアまで行き、王に神の言葉を伝える。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」(17:1)。
パレスチナは乾燥地帯であり、秋から冬にかけて雨が降らないとすぐに干ばつになるそうだ。もともとカナン地方にいた人々はバアルと呼ばれる神を拝んでいた。バアルは太陽と雨を司るとされた農業神だそうだ。イスラエルの民はパレスチナ入植と共に、このバアルに惹かれていったようだ。
雨を降らしてくれて作物を育ててくれ自分たちを豊かにしてくれる神であるというバアルはとても魅力的だったのだろう。ある牧師が「偶像礼拝とはつまるところ人間の欲望の反映だからです。それは自己中心の信仰ですから、それがもたらすものは他者に対する貪りであり、社会的には不正と悪の横行として現れます。」と書いてあった。預言者はそんな偶像礼拝を止めるようにと告げるけれどもその声はなかなか届かなかった。
エリヤがどういう人だったのか、王との関係はどうだったのかよく分からないけれど、自分が告げるまでは数年間雨が降らないなんて話しは王にとっては面白くない話しだっただろう。また時の権力者にそんなことを言うということは自分の身も危険にさらすことになる。
そこで、それに続けて、主の言葉がエリヤに臨む。
「17:3 ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。17:4 その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」
逃げろ、ということだろう。干ばつを預言しその通りになることで、それを預言した輩としてアハブ王から狙われるからということなんだろうと思う。
エリヤは神の命令通りにヨルダン川の東のケリトの川のほとりに身を隠した。そこでは烏が朝晩パンと肉を運んで来たと書かれている。烏は宗教的に汚れた鳥とされていたそうだが、神はその烏を使ってエリヤを助けたということか。そんなことあるのかと思うが、ある牧師は、「へブル語の烏=クリビームは別の読み方ではアラビーム=アラブ人と通じます。おそらくは故郷のアラブ人(遊牧民たち)がエリヤをかくまったのでしょう。」と書いてあった。パンと肉というのは結構ごちそうなのだそうだ。
烏だったのかアラブ人だったのかはっきりとはしないけれど、とにかくエリヤはそこで養われた。
そしてケリトの川の水を飲むように、と言うのが神の命令があったが、やがてその川の水も涸れた、という。
神の使い
エリヤはケリトの川が涸れたあと、また別の神の言葉を聞く。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」というものだった。そしてエリヤはその言葉に従いサレプタという町に向かい、そこで自分を養ってくれる人と出会う。
エリヤを養った女。それは一人のやもめであり、一食分の食料しか持っていない、それを食べて死を待つだけだ、と言う人だった。
やもめはエリヤから最初に、エリヤの為にパン菓子を作り、その後に自分と息子の分を作れと言われる。主なる神が、雨を降らせるまでは粉も油もなくならないといわれているからだ、と言われる。そしてその通り、粉も油もなくならなかったと書かれている。
しかし本当にそんなことあるのだろうか。その後そこの息子が病気にかかり息を引き取ったけれども、生き返ったということが書かれている。その息を引き取った時に、その家の女主人(いつから女主人?)が、「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」と言っている。この罪とはなんのことなんだろうか。この家は2階があると書かれていて、2階がある家は裕福な家らしくて、本当は粉も油も十分あって、やもめが嘘をついていた、その嘘がここでいう罪だったとも考えられなくもない、というようなことを言っている人がいた。
僅かの粉と油だったのか、本当はいっぱいあったのか分からない。けれど、エリヤがこのやもめに養われたことには違いない。烏だったのかアラブ人だったのかわからないけれど、とにかくそこでエリヤは養われた。
神さまは奇跡的な方法を用いるのか、そうじゃないのか分からないけれど、
とにかくエリヤに対して、そこであなたを養わせる、と言われたことを実行された。
恵み
神はいろんな形で恵みを与えられる。それがどういうかたちなのか私たちには分からないことが多い。恵みを与えてくださいと祈る。しかしその恵みは私たちの予定通りに、与えられるとは限らない。私たちの願い通りとは限らない。奇跡的なことを起こして欲しいと願う気持ちも多いけれど、奇跡的なことなんてそうそう起きないようだ。でも思わぬ形で、私たちが思いもしない仕方で、神さまは私たちに恵みを与えてくれているのではないかと思う。
また逆に神さまは、烏ややもめを通してエリヤを助けたように、私たちを通して誰かを助けるように、養うようにされようとしているのではないだろうか。私たちの出来る小さな何かを用いて神は何かをされようとしているのではないか。私たちの持っているわずかのものを用いて何かをされようとしているのではないか。それが何なのか、それを神に聞いて行きたいと思う。私たちを通して、私たちの献げものを通して神がそこに恵みを与えようとしておられるのではないか。誰かを助け、誰かに仕えることを通してさらに私たちが神を知り、神を信じ、その神を喜ぶものとなることを待っているのではないか。
「偶像礼拝とはつまるところ人間の欲望の反映だからです。」と言ったけれど、自分の欲望を追求することは、実はあまりうれしいことではないのだろうと思う。
「人生とは、ワクワクするビジネスである。他者のために生きるとき、人生は最もワクワクする。」(ヘレン・ケラー)
神は私たちをきっと養ってくれる、そのことを信じ、そのことを感謝し、私たちも他者のために生きるようになりたいと思う。その時は最もワクワクするのだろうから。
隣人を愛すること、それが一番大事な律法だとイエスも語っている。