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礼拝メッセージより
「大丈夫」 2012年8月5日
聖書:列王記上 3章1-15節
跡目争い
自分の息子アブサロムのクーデターによってエルサレムを追われていたダビデは、アブサロムの死後クーデターもおさまり、再びエルサレムに戻ってくる。しかしダビデは後継者を指名しないままに年を重ねる。列王記上1:1 「ダビデ王は多くの日を重ねて老人になり、衣を何枚着せられても暖まらなかった。」ために、側女に一緒に寝て温めてもらうような状態になる。
そうするとダビデとハギトの子であるアドニヤが、司令官ヨアブと祭司アビアタルの支持を得て、自分が王になると企てる。アブサロムが死んだ後は、アドニヤが次の王位継承者であって、アドニヤが次の王になるのが当然の流れでもあったようだ。
しかしアドニヤが王となる準備を着々と進めていることを知った、祭司ツァドク、監督官ベナヤ、預言者ナタンたちは、そのことをバト・シェバに伝え、ソロモンが王になると誓っていたではないか、なのにアドニヤが王となってしまいました、このままでは私たち母子は反逆者になってしまいます、とダビデに伝えた。』
ダビデは惚れた弱みなのか、バテ・シェバの願いどおりにソロモンを次の王に指名する。ソロモンの側近たちは、指名獲得の証拠としてダビデ王のらばにソロモンを乗せて、外人傭兵部隊の親衛隊で護衛し、ギホンと言うところまで行進し、油を注ぎ即位式を挙げる。(1:38)。そして、ダビデ王はソロモンを後継者に指名したと天下に公表します(1:48)。
本来は次の王位継承者であるアドニヤから王位を奪うというソロモン側のクーデターだ。
政権を握ったソロモンは、ダビデの遺言という名目で、反対派を一掃する。アドニヤを殺し、祭司アビアタルを故郷に追放、司令官ヨアブは神殿に逃げたけれども殺し、かつてダビデに悪口を言ったシムイも殺してしまう。
しかしバテ・シェバがダビデに、ソロモンを王とすると約束していたではありませんか、と言ったけれど、かつてそのようなことを言ったというは聖書にはかかれていず、実はダビデが年老いたことを利用してのソロモン側の陰謀だったのではないかという疑いもあるそうだ。
つまりアドニヤ側とソロモン側の権力闘争があり、ソロモン側が勝利した。そしてアドニヤ側が粛正された、ということのようだ。
その後ソロモンはエジプトの王ファラオの婿となり、いけにえをささげるためにギブオンというところに行き夢を見た、というのが今日の聖書の箇所になる。
夢
主がソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言った。ソロモンは、「民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と祈った。そうすると神は、長寿や富や敵の命を求めないで、正しく聞き分ける知恵を求めたと言って喜び、富も栄光も与える、ダビデのように掟を戒めを守り、わたしの道を守るなら長寿も恵む、と言ったというのだ。
ソロモンはダビデの息子だけれど、上から10番目くらいの息子だった。そして母親や側近に担がれて王となったようなもので、自分がなりたくて仕方なくてなったというわけではないようだ。たまたまクーデターが成功して王となることができたと言えなくもない。そこに神の導きがあったのだと言うこともできるだうけれど、相当に血なまぐさい権力闘争があり、血の粛清というようなこともしている。神によって王とされたソロモンではあっても、全く一点の曇りもない洗練潔白な人物というわけではない。
また知恵と力に満ちた立派な王というわけでもないようだ。この夢の中でも、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません(7節)と言っている。ということは、王となったけれども、多くの民を導くのに、不安をいっぱい抱えていたのだろう。
知恵を求めたら富も栄誉も与えると言われたなんていうのは出来すぎた話であり、綺麗事過ぎる話のようにも聞こえるけれども、国を治めるための知恵こそが必要であるというのはソロモンの本心だったんじゃないかと思う。
そして夢を通して、知恵を求めたことを神から喜んだと言って貰い、知恵だけではなく富も栄誉も与えると告げられたと言うことは、ソロモンにとって本当に嬉しいことだっただろうなと思う。
思いもせず王となり、どうなることかといっぱい抱えていた不安と恐れがずいぶんと減って、自信が芽生えていったんじゃないかと思う。
大丈夫
「恐れる精神の下では、なんと少しのことしか成し遂げられないのだろう。」(フローレンス・ナイチンゲール)
恐れと不安でいっぱいなとき、私たちはその恐れと不安にがんじがらめにされてしまう。大丈夫なんだろうかと不安になると、普通に声を出すことも難しくなる。それまで普通に出来ていたことも、出来るだろうかという恐れる気持ちを持った途端にできなくなってしまうなんてこともある。
昔見た映画で、どんな映画か忘れたけれど、妹の野球の応援に言った兄がこんなことをいう場面があった。その妹がバッターになった時に兄が、「大丈夫だ、打てる、お前は天才だ。」と言っていた。
神さまも私たちに「大丈夫だ、心配するな、お前は天才だ、出来る、絶対に出来る。」そんな風に言っているのではないか。
神さまはそんな私たちに、「大丈夫だ、私に聞いていくならば大丈夫、余計な心配はしなくてもいい、お前は出来る」、そう言ってくれているように思う。聖書ってそんな神さまの励ましの言葉が詰まっている書物だと思う。