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礼拝メッセージより
「罪を取り除く」 2012年7月22日
聖書:サムエル記下 12章1-15a節
バト・シェバ
南北イスラエルの王となったダビデは、周りの国々との戦いにも勝利し快進撃を続けていた。
サムエル記下11章を見るとダビデが自分の部下であるイスラエル全軍が出陣している時に、王宮の屋上からたいそう美しい女性が水浴びをしているのを見て誰なのか調べさせた。そうするとイスラエル軍の軍人であるウリヤという人の妻のバト・シェバだった。ダビデはバト・シェバを召し入れて床を共にした。バト・シェバは妊娠したのでダビデにそのことを告げた。
そうするとダビデは彼女の夫であるウリヤを戦場から呼び戻して戦況を尋ねた。そして家に帰って足を洗うがよい、と言い贈り物まで送った。今の内にバト・シェバのところへ帰せば、ウリヤの子供ということになって自分が妊娠させたことも隠し通せると思ったのだろう。ところがウリヤは、自分の同僚は戦場で戦っているのに、自分だけ妻のところに帰って床を共にするなんてできない、と言って帰ろうとしない。
自分の策がうまくいかないことを知ったダビデは、ウリヤを戦場に戻し、司令官にウリヤを戦いの最前線に行かせて戦死させよと命令を出し、そこでウリヤは死ぬ。喪が明けるとダビデはバト・シェバを妻とした。
そのダビデに預言者であるナタンが主から遣わされた。それが今日の箇所だ。
ナタンはこんな話しをした。
「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
それを聞いたダビデは激怒して、そんな無慈悲な男は死罪だ、小羊の償いに四倍の価を払うべきだ、そんな無慈悲なことをしたのだから、と言った。そうするとナタンは、その男はあなただ、と言った。私はあなたを王として救ってきた。妻たちも与えた。なのにどうして私の意に背くことをしたのか、と神の言葉を告げた。
それを聞いたダビデは、わたしは主に罪を犯した、と言った。
罪
自分の欲望を満たすために人の妻と知りながら奪ってしまった。そしてそのことが発覚しないように策を練った。自分の子供だとばれなければいいと思って夫を呼び戻してみた。けれども失敗し、ならば自分の妻にしてしまえばということで、夫を戦死させた。
美人を見てむらむらしてしまって欲望を抑えられなくなったのが事のはじまりだ。それが人の妻でなければ多分問題はなかったんだろうと思う。しかし人の妻を奪うということは姦淫の罪を犯すことになる。またこの戦いは、神の箱も戦場に出て行くという聖なる戦いだったようで、兵士はみんな禁欲しないといけないことになっていたそうだ。それなのに最高司令長官であるダビデは王宮に残り姦淫していたということになる。そんなことがばれてしまっては大事だということでなんとか誤魔化そうとした。けれどもうまくいかず、バテ・シェバを妻にするしかくななり、そのために結局はウリヤを死なせることになった。姦淫から殺人まで犯すことになった。言わば自分の面子のため、自分の罪を誤魔化すため、結局人を殺してしまったというわけだ。
そうやってなんとか誤魔化していたことを、ダビデはナタンにつきつけられる。しかしナタンに言われるまでダビデはどう思っていたんだろうか。一部の者しか知らないならば大丈夫と思っていたんだろうか。それとも王なんだから誰から何を言われようと平気だったんだろうか。
もし自分が王という立場に立ったとしたら、ダビデと同じようなことしそうだなと思う。独裁者になったら自分の欲望のままにしてしまいそうだ。そして誰かに何か言われても、王に楯突くとは何事か、と言いそうだ。
でもダビデはナタンに自分のことを指摘されたときに、わたしは主に罪を犯した、と言った。ナタンに文句を言うこともなく、弁解することもなかったようだ。ということは、バテ・シェバのことは、ダビデにとっても全然平気なことではなく、自分がしでかしたことだけれども、心の痛い出来事だったんだろうと思う。本当は忘れてしまいたい、過去のことにしたい、誰からも触れられたくないことだったんだろう。
でもいつ誰から指摘されるか分からない、そんな心の中の爆弾のようなものでもあったんだろうと思う。
重荷
自分の罪を知らされること、自分の間違いを突きつけられるということはつらいことだ。
いろんな間違いやミスを犯しながら人は生きていくのだろうと思う。なんて自分は駄目な悪い人間なんだろうと思う。どこかでそれを誤魔化したり、仕方がなかったんだと自分に言い聞かせている。そうやって自分が十分納得できているならばいいけれど、何もかも納得できるわけではない。誰かから駄目だと言われるのではないか、赦さないと言われるのではないか、そんな思いが甦ってきて、そんな思いに支配されることがある。
車をぶつけられて少し怪我をしたことがあった。その時身体は痛かったけれど、心は痛くはなかった。もし反対に自分が誰かを怪我させたとしたら、すごく心が痛かっただろうなと思う。少しの怪我なら、相手から大丈夫だと言って貰えれば、そして相手が元気になれば、それでだいたい解決できると思うけれど、相手を死なせたりした時にはどうなるんだろうかと想像するとぞっとする。
赦し
取り返しのつかないことをやってしまった。間違ったことをやってしまった。罪を犯してしまった。本当に真剣にその思いを受け止めたならば、人間は生きていけないんじゃないかと思ったりする。自分ひとりだけで、それを真剣に受け止めたならば、つぶれるしかないような気がする。
だから普通は一所懸命に弁解する。戦争だったから仕方なかった、命令だったから、あれで戦争が早く終わったから、と思う。でもその時はそれで納得したような気持ちになっても、またしばらくすると苦しみがよみがえってくるような気がする。
ダビデは「わたしは主に罪を犯した」と言った。それまで部下を殺してまで誤魔化そうとしてきたけれど、そして表面上は一応つじつまを合わせてはきたけれど、自分は間違ったことをしてきてしまった、という思い、忘れることができない、消化できない重荷をずっと抱えてきていたんじゃないかと思う。だから弁解も何もせずに、わたしは主に罪を犯した、と言ったのではないかと思う。
ナタンはそんなダビデに、「その主があなたの罪を取り除かれる」と言った。
私たちも誰もがいろんな罪や間違いを抱えて、そしていろんなことを後悔して生きているだろう。あの時あんなことをしてしまった、あの時こうしとけばよかったんじゃないか、そんな苦い思いを誰もが持っていることだろう。
そこから解放されるには、赦す、と言って貰うしかないように思う。誰かに悪いことをしたときに、あんなことしなければよかった、なんであんなことしたんだろう、と自分で自分を責める。でも、大丈夫、そんなこと気にするな、と言って貰うと安心する。
もちろんそうやって言ってもらえることばかりではないけれど、そんな苦しい思いを自分ひとりだけで受け止めると潰れそうな気がする。
そんな時は神に赦してもらうしかないのだろう。主があなたの罪を取り除く、という言葉を聞いていくしかない。あなたの罪を主が取り除く、という言葉は私たちに対しても語られている言葉だと思う。
信じること
最近神を信じるってどういうことなんだろうと思っている。信じれば人生が思い通りになるなんてわけでもない。危ない状況から救い出されるとも限らない。でもなんで神を信じるんだろうなんて思っている。
でも今日は、神を信じるということは、お前を赦すと言うことを聞いていくということじゃないかという気がしている。イエスは十字架で処刑された。なんだかぼろぼろにされてしまったという感じがする。でもぼろぼろになっても、私はお前を赦す、誰がどう言おうとお前を赦す、自分で自分を赦せなくても私はお前を赦す、なんだかそう言われているような気がしている。そしてその言葉を聞いていくことが神を信じるということなんじゃないかという気がしている。