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礼拝メッセージより
「復讐するは我にあり」 2012年7月8日
聖書:サムエル記上 26章6-25節
油注ぎ
王さまって基本的に子供とか親族が継いでいくようだ。ダビデ以降の王であっても基本的にはその子供が継いでいる。
しかし初代の王サウルにはヨナタンという子供がいたにも関わらず、その次の王はダビデがなった。サウル自身も自分の子供に王を引き継ぎたいと思っていたらしい。ところがそこで邪魔になったのがダビデだった。
ダビデはゴリアテを倒し、その後の戦いでも活躍し、民からの評判もよくなってきた。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という歌を民が歌っているのも気に入らなかった。
そこでサウルはダビデに槍を投げたり、戦いに行かせて戦死させようとするけれど、逆に活躍して余計にみんなから褒められることになったようだ。
寛大に扱う
ダビデはサウルに狙われていることを知って逃げた。そんな中でこの26章の出来事が起こった。
ダビデとその部下アビシャイがサウルとその兵士3000人が寝ている間に、サウルの枕元まで行き、殺すことが出来る状況になり、部下は殺そうといったけれども、ダビデは主が油を注がれた者に手をかけると罰を受ける、と言って、槍と水差しだけを持って帰ってきた。そして遠く離れた山まで戻って来てから声をかけて、王を殺すこともできたけれど殺しはしない、一体どうして自分を狙うのか、と言った。そうするとサウルは、もう危害は加えないと言いダビデを祝福したという話しだ。
同じような話しが24章にも出てくる。そこでもサウルが3千人の部下と一緒にダビデを追っていた。ダビデと部下が洞窟に入っていたところに、丁度サウルが用を足すために入ってきた。ダビデの部下が主が与えてくれた機会だからと手にかけようとしたけれど、やはりダビデが、主が油を注がれた方に手をかけてはいけないと説得し、結局上着の端をひそかに切っただけだった。
そして洞窟を出たサウロに続いて出て来たダビデが、どうして自分を狙うのか、あなたを殺すチャンスもあったけれど殺しはしなかった、と話した。そうするとサウロは自分が間違っていたと認め、お前が王になるとダビデに話したというはなしだ。
これが別々の出来事だったらサウルが2回も同じようなことをしたということになるけれど、基本的な話しの展開も同じだ。
まずは、ユダの住民からダビデの居場所が知らされサウル軍が出陣する、そしてサウルが気付かないうちにダビデがサウルを殺せる状況になる、次にダビデの部下が神がこの時を用意してくれたと言ってサウルを殺害するようにと言う、しかしダビデは油注がれた者を殺すわけには行かないといって、そういう状況になったという証拠の品を手に入れる、その後ダビデが名乗り出て自分の身の潔白とサウルの迫害の不当性を訴える、そして最後にサウルが自分が自分の非とダビデの正当性を認め、和解しダビデを祝福する、という形になっている。
そんな風に話しの展開はまるで同じで、また蚤一匹というような珍しい言葉もどちらにも出てくることからも、24章と26章は多分もともと一つの話が別々に伝わっていって少しずつ違うようになったものなのではないかと思う。
もともと同じ話じゃないかと誰もが思うようなことをあえて二つ載せているというのは、それだけダビデが清廉潔白であったということを強調しようとしているということだろうと思う。次の王としてダビデが立てられたことは全く問題ない、ということを言おうとしているのだろう。
逆に言うと、それだけ言わないといけないほどにダビデが次の王となるということが特別なことだということかもしれない。王の息子が王となるという時には、その息子がいかにいい人間であるかなんていうことは普通問題にならない。けれども親族でもないものが次の王となり、それが以下に正統であったかということをみんなに認めてもらうためには、その人の人柄がどうなのかということが問題にもなってくるということなんだろう。
注解書には「おそらくそのような変則的な王位継承を神の意志に基づくものとして正当化し、ダビデの立場を弁明するために、ダビデの治世に書かれたものと思われる」と書いてあった。
そして人柄と一緒に言われていることが、主が油を注がれた者ということだ。ダビデが、主が油を注がれた方に手をかければ罰を受けずには済まない、と語っている。11節には「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。」と言っている。
王となる、王であるという証拠というか根拠というか、それは主が油を注がれたということであると言っているようだ。人柄と言うよりも主が油を注がれたことこそを重要視するということなんだろう。そしてダビデはこの時すでに油を注がれている。主が油を注がれたサウルをダビデが殺すことを主が許さないと同じように、油を注がれているダビデを誰かが殺すことも主は許さない、ということにもつながるのだろう。ダビデが油を注がれたサウルを殺すということは、誰かが油を注がれたダビデを殺してもいいという口実を与えることになるわけで、サウルを殺さないということは自分を守るということにもつながったのだろうと思う。
復讐
いろんな気持ちがありつつ、ダビデはサウルを殺せるのに殺さなかったのだろうと思う。自分の命が狙われていたのだからやっつけたとしても正当防衛なんだと言えるような気もするけれど、ダビデはそれをしなかった。
10節では、「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ」と言っている。
ローマの信徒への手紙12:19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」
まさにそんな心境だったのだろうか。主が復讐するならば自分がわざわざする必要はない。主が復讐してくれると分かっているならばそれでもいいけれど、と思う。しかし本当にそうしてくれるのか、一体いつになったらしてくれるのか、それが分からないから大変だ。
そもそも主が復讐してくれるというほど自分が正しいのかどうか、それも怪しい。主が復讐してくれたら、一番に復讐されるのが自分かもしれない。自分が誰かの復讐をされるかもしれない。
そんなことを考えていると訳が分からなくなってくる。
24節でダビデが「今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からあわたしを救ってくださいますように」と言っている。
復讐は主がするのだから主に任すというよりも、自分がサウルに復讐しなかったように主も自分に復讐しないで欲しい、ということのような気がする。
私は自分で復讐しないなんて偉そうに言えるほど立派に生きている人はそうそういないような気がする。自分も赦して欲しいから相手も赦そう、というのが私たちの姿なんじゃないかと思う。
私も赦すから、私も赦して欲しい、そうやって生きていくことが大事なんじゃないかと思う。
主の祈りにも「我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるすたまえ」とある。
そして復讐しないことで、赦すことでダビデは自分自身をも守ったのだと思う。相手を赦すということは自分を守ること、自分を大切にすることでもあるんじゃないかと思う。