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礼拝メッセージより
「友情」 2012年7月1日
聖書:サムエル記上 20章24b-42節
ともだち
「一年生になったら、一年生になったら、ともだち百人できるかな」という歌がある。百人も友達いないよなあ、、ともだちってなんなんだろう、百人もいらないだろう、なんて色々つっこみたくなる。
一目惚れ?
ゴリアテを倒したダビデを見てイスラエルの最初の王であるサウル王は、「お前は誰の息子か」と尋ね、ダビデが、「王様の僕、ベツレヘムのエッサイの息子です」と答えた、と17章の最後に書かれている。それに続く18章の1節では、「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」と書かれている。
ヨナタンはサウル王の息子であるが、まるでダビデに一目惚れしたかのような言い方だ。サムエル記下1章にダビデがサウルとヨナタンを悼む歌というのがあるが、26節には「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を」とある。ただ友情を超えるような特別な感情、少なくとも百人もいるともだちとは全然違う関係があるようだ。
嫉妬
ダビデはその後の戦いでも勝利を収め、周りからの評判もよくなってくる。そうするとサウル王はダビデを妬むようになる。サウル王に関して、悪霊が彼をさいなむようになるとか、悪霊が激しく降るとか書かれている。精神的な病気か何かがあると、当時は神からの悪霊の仕業だと考えられていたそうで、きっとサウルもそんな病気か障害があったのだろうと思う。そのために戦いに勝ち人気も出て来たダビデが、やがて自分たちを亡き者として王の地位を狙っているに違いないという被害妄想にとらわれてしまったのではないかと思う。そのためにサウル王はだんだんとダビデを恐れるようになり、ダビデの命を狙うようになる。
サウルは長女をダビデの妻として与えるから自分の戦士となって戦ってくれと言い、敵であるペリシテ人によって戦死させようとする。ところがダビデ自身がそんな身分ではないと言い、サウル王もその時は長女を別の人と結婚させる。
サウルの別の娘ミカルがダビデを愛していると聞き、そのミカルと結婚させようとする。ダビデはまたそんな身分ではないと答えるが、サウルは結納金なんか心配するな、敵であるペリシテ人の陽皮、つまりペニスの皮100枚でいいんだと言う。要するにペリシテ人100人を殺してその証拠を持ってきたらそれで結婚を許すというわけだ。100人殺す前にダビデが殺されるだろうということを狙っていたのだろう。ところがダビデは自分の兵と一緒に200人のペリシテ人を討ち取ってその陽皮を持ち帰ったため、サウル王は娘のミカルとの結婚を許すしかなくなった。
その後サウル王は息子であるヨナタンと家臣全員にダビデを殺すようにと命じた。しかしヨナタンはダビデに対して友情を超えるような愛情を持っていたので、サウルを諫めてダビデを殺さないようにと進言し、一度はおさまった。しかしまたダビデがペリシテ人との戦いで活躍すると、またダビデの命を狙うようになった。そうすると今度は妻となっていたサウル王の娘であるミカルがダビデを逃し、ダビデはサムエルのところへ行った。やがてサウルはそこまでダビデを追いかけていくが、今度は神の霊が下り預言する状態になり、サムエルの前で一昼夜裸のままで倒れてしまい、ダビデを殺すことはできなかったと書かれている。
ダビデはそこからこんどはヨナタンのところへ行き今にも殺されそうだと相談する。ダビデは、明日の新月祭の時に王と食事を共にすることになっているが、ダビデは自分の町に帰って一族のためにいけにえをささげるからいないと伝え、それを王が認めるのか、それとも腹を立てるのか、その反応をうかがって欲しいとヨナタンに頼む。
友情
その後が今日の聖書の箇所だ。サウルはダビデが二日目になっても現れないのでヨナタンにどうしたのかと聞くと、ヨナタンは打ち合わせ通りに、ベツレヘムへ帰ったと答えた。そうするとサウルは激怒してダビデは死なねばならないと言う。どうして死なねばならないのかと問い返すヨナタンにサウルは槍を投げつけた。息子のヨナタンに王を継がせるために、その邪魔となるダビデを殺そうとしているのに、そのヨナタンがダビデの味方になっているという、そんな苛立ちもあるのだろうけど、かなり普通の精神状態じゃなくて、カッとするとなると何をしでかすかわからないような状態だったんだろうと思う。
翌朝ヨナタンは従者を連れて野に行き、打ち合わせをした通りに矢を遠くに射ることでサウル王が殺そうとしていることをダビデに伝える。従者を先に帰した後、ヨナタンとダビデは互いに口づけし共に泣いたと書かれている。そしてヨナタンは、「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから」と言ったという。
なんだか恋人の別れみたいな感じもするけど、それほど二人の関係は親密だったということなんだろう。
しかしここから何を読み取ったらいいんだろうか。本当に分からない。友達の関係を大事にしましょうということなんだろうか。
5月に釧路の友達を突然死で亡くした。50歳だった。十年以上会ってなくて、たまに連絡を取り合うくらいだったけれど、いつか釧路に行くときには当然会えると思っていた。両親も妻も教会員で、彼自身は教会員ではなかったけれどよく礼拝にも来てくれてた。年は少し下だったけれど、スキーに連れて行ってくれたり飲みに誘ってくれたり、いろんなことをいっぱいしてもらってばっかりだった。教会員でなかったからなのか、牧師としてというよりもひとりの人間として接してくれたように思う。こっちに来てからも、たまに連絡とるくらいになっても、それで切れてしまうような関係でもなかったと思う。
殊更友達だなんて思ったこともなかったけれど、亡くなったことを聞いたときにはウソだろうと思い、大事なものを失ったという気持ちになった。
ヨハネによる福音書15:12-15「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
友達ってただそこにいてくれるだけでいい。そこにいてくれることが何より大事だ。
イエスはそんな友でいてくれているということなんだろう。それってすごいことなんじゃないかと思う。