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礼拝メッセージより
「大丈夫」 2012年6月24日
聖書:サムエル記上 17章31-54節
サウル
外国の脅威にさらされていたイスラエルの人たちは、外国と同じように王を求めた。そこで神は当時の祭司であり預言者でもあるサムエルに王を立てるようにと告げた。
そこで選ばれたのがサウルだった。サウルについて9章2節では、「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と書かれている。そしてサウルが王として選ばれる時のことが10章に出てくるが、23節には「人々は走って行き、そこから彼を連れて来た。サウルが民の真ん中に立つと、民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と書かれている。
実は一番背の高い者が王となるということになっていたのではないかという話しもあるらしいが、とにかくサウルは飛び抜けて背が高かったようだ。
そうしてサウルから油を注がれてサウルだったが、年を経るにつれて王としての自信が出て来たのか、最初はまじめに聞いていたサムエルの言葉を、だんだんといい加減にしか聞かなくなってくる。
サウルはサムエルを王としたことを悔いて、サムエルに代わる王を捜し出した。それがダビデだった。そのダビデが少年の時にペリシテのゴリアトと戦ったという武勇伝が今日の箇所だ。
ゴリアト
ゴリアトの説明が17:1以下に書かれている。身長が6アンマ半、約280cm、体重は書いてないが、頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅5千シェケル、57kgの重さのあるうろことじの鎧を着て、足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていて、槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄600シェケル、約7kgもあった、と書かれている。
そのゴリアトがイスラエル軍に向かって、1対1で戦う奴は出てこい、と40日間挑発したけれども、みんな恐れをなして出ていかなかった。
そこに戦っている兄たちに届け物を持ってきたダビデは、あのペリシテ人を倒したら何かしてもらえるのですか、生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は一体何ものですか、と言ったそうな。
そのことを伝え聞いたサウロはダビデを呼び出した、というところからが今日の聖書の箇所だ。
ダビデは最初、サウルの言うままに兜や鎧を着て剣を持ったが、歩くこともできなかったのでそれを脱ぎ、結局は自分の杖と石投げ紐と石だけを持ちゴリアトをやっつけてしまった。そんな話しだ。
武勇伝
実はサムエル記下21章19節に「ゴブで、またペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム出身のヤアレ・オルギムの子エルハナンが、ガト人ゴリアトを打ち殺した。ゴリアトの槍の柄は機織りの巻き棒ほどもあった。」とある。ダビデとゴリアトの話しはこのサムエル記下の話しを借用したものだろうと言われているようだ。
立派なダビデ王は少年のころから活躍したということを伝えようとしているということでもあるのだろう。
ダビデは「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」と言っている。
王を立てるということを民が求めたために神がしぶしぶ認めたわけれだけれど、しかし王を立てて強い武力を持つことで自分たちの国が守られるのだということに対する、いわば反省がこのダビデの言葉に託されているのではないかと思う。
大丈夫
自分自身が力を持つことで相手を倒し未来を切り開こうとすることで、実はその分神のことを忘れ神に従うということを忘れてしまうことになるということを言いたいのだろうと思う。
ダビデは武具を脱いでいつもの格好で戦ったという話しは面白いなと思う。私たちはいろいろと鎧を着けようとすることが多いような気がする。今のままの自分で大丈夫だと思っている時には余計なものはつける必要がない。今のままでは駄目なのだ、と思うときにはいろんな鎧を着けようとする。
もっと力をつけないと、もっと資格をもたないと、もっと学力を、もっと財力を、もっと人脈を、もっともっとと思う。それは今のままの自分では駄目なのだという不安があるからではないかと思う。
神がついていて神の戦いであるならば余計な武具は邪魔なのだとダビデが言ったように、神が共にいるならば余計なものは必要ないし、邪魔にさえなるということを言っているような気がする。
力が足りない、王が足りない、ということでイスラエルの民は王を求めた。
あれも足りない、これも足りない、と思う毎日だ。そして全然足りてないと思う自分を嘆いてばかりいる。
昨日も結婚式があって、やっぱり緊張してスムーズにしゃべり出せないところがあった。そこが駄目だと言われたわけでもないのに、自分自身がそれをゆるせないでいる。完璧にしようとしているわけではないと思いつつ、そんなちょっとしたミスをなくそうなくそうとしてきたなと思う。ミスをなくさないといけないと思うことで、なくせない自分のことを駄目なんだと責めてきた。だからミスのことばかりを気にして、余計にいろんなミスを増やし、そのことで緊張し気疲れしている。
昨日、ふと考えた。ちょっとしたミスでも、それをなくさなきゃいけないんだと思い詰めていたけれど、ミスをするのはしょうがないしミスを抱えていけばいいじゃないかと思えるようになってきた。そうするとまたすこし余計な力が抜けたような気がしている。
自分で自分のことを駄目なんだ、駄目なんだと思ってしまうことが多い。あれもこれもまだまだ足りないと思う。
でも神は大丈夫だ、足りてるよ、それで十分だ、と言われているんじゃないだろうか。
鎧なんかつけなくてもいい、神がついているのだから大丈夫なのだ、鎧をつけると余計に動けなくなってしまうぞ、今日の聖書はそのことを私たちに伝えているのではないだろうか。