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礼拝メッセージより
「逆戻り」 2012年6月17日
聖書:サムエル記上 8章1-22節
息子
エリの息子たちが、祭司なのにならず者であったと同じように、サムエルが年老いた時に、裁きを行う者として、つまり士師として任命した息子たちも不正な利益を求め、賄賂を取るというどうしようもない者だったようです。基本的に世襲というのはうまくいかないことが多いのかもしれません。
イスラエルの民がエジプトを脱出してカナンの地に入ってからそれまでは、他の国との摩擦など、何か問題がおこる時々に、民を指導し裁きを行う士師という人が立てられてきました。サムエルの時代にはペリシテ人からの圧力が強かったようで、一時期神の箱もそのペリシテ人に奪われてしまうこともありました。
そんな外国からの脅威にさらされる中で、民の中には周りの国のように王を立てて、その王の下に強力な軍隊を組織して対抗したい、という思いになってきたようです。そこで民は士師として、また預言者として裁きを行ってきたサムエルに王を求めるようになりました。王と軍隊が自分たちを守ってくれると考えたのでしょうか。周りの国と同じようにしていないとやられてしまうのではないかと心配になったのでしょうか。
勝手にしろ
サムエルは王を立てるということが悪であると考えていた。しかし主はサムエルに、民の声に従いなさいと言われます。
なかなか願いを聞いてくれない頑固親父が、もう勝手にしろと言うと、それを聞いた家族が勝手にしていいんだと喜ぶというようなドラマを見たことがあります。
王を求める民に対して神さまは、もう勝手にしろ、とでも言わんばかりに聞こえます。でも、王を立てるとどうなるかということを民に説明するようにとサムエルに命じました。
そこでサムエルは民に向かって、王を立てるということは、息子を軍人に徴用され、娘を職人に徴用され、畑は没収され、収穫の十分の一は没収され、羊も徴収され、王の奴隷となるのだ、そしてあなたたちは泣き叫ぶことになる、と告げます。
ところが、民はどうしても王が必要なのだ、他の民と同じように王に守って貰いたいといいます。そこで主はサムエルに、民のいうとおり王を立てなさいといいました。
逆戻り
王を立てるということは王の奴隷となることだ、とサムエルは警告しました。かつてエジプトで奴隷とされて苦労したイスラエルの民でした。その奴隷の状態から解放されてエジプトを脱出して自由の身になったのに、今度は自ら奴隷になろうとしているとは何と皮肉なことかと思います。もちろん実際エジプトで奴隷だったという人たちはすでにいなくなっていたでしょうが、もうそんなことはきれいさっぱり忘れ去られてしまっていたのでしょうか。
それとも、ペリシテ始め外国の脅威がそれほどに強くて、外国に負けて支配されてしまうよりは、自分たちの王の奴隷の方がまだましだ、という気持ちだったのでしょうか。
でもそれはまさに神の代わりに王に従うという方を選択したということになります。神の民であることをやめてしまうということになります。
外国の軍隊とか外国の脅威は見えても、見えない神の働きや導きを見ることができなくなったということでしょう。見えない神を信じられないで、目に見える王の方が信頼できるということだったのでしょう。
こうやって聖書に書かれていることを読むと、イスラエルの民の不信仰さが目について駄目な奴等だな、なんてことも思いますが、でもいざ自分のことを考えるとそんな偉そうなことは言ってられません。目に見えるものに信頼するというか捕らわれるというか支配されていて、目に見えない神の導きを信じてないことがしばしばです。
教会の赤字を見て元気をなくし、近い将来どうなるんだろうかといっぱい心配しています。
あるいは自分の駄目なところや失敗に目を奪われてばかりもいます。ホテルの結婚式も相変わらず緊張してうまく言葉がでないことも多く、一時はまあええかなんて思う時もあったのですが、この前やっぱりスムーズに言葉が出ず、それが礼拝の時や主の晩餐の時にもつかえることがあり、そんな風にうまくいかないことの方についつい目が向いてしまっています。
そうすると次の時のことがやっぱりまた心配になってきます。昨日も久しぶりに結婚式があって、大丈夫だろうかと数日前からそわそわしてました。
丁度その頃、たまたま録画していたビデオを見ていると、50年位天ぷら屋さんをしていて、今では知る人ぞ知る評判の天ぷら屋さんという人が出て来ました。その人はお客さんの前で天ぷらを揚げるときに緊張して足ががくがくしたことがあるなんて話しをしていて、俺みたいに気の小さい人間はいない、俺よりも気の小さい人間がいたら連れて来て見ろ、なんてことを言ってました。でも俺は俺なんだ、これが俺なんだなんて言ってて、それを聞いたとき、この人もそうなんだと思うと、ちょっと安心し、失敗してもどうなっても俺は俺なんだ、なんて思えて少し気が楽になりました。
多分同じ日に神学部から送られてきた神学論集というのを見ているときに、それはイエスの誕生物語の話しだったのですが、その中にこんな言葉がありました。『なぜならば、律法の呪いの対象となったのは、生前のイエスの福音その者、すなわち、ユダヤの律法を守ることなどまったく考えてもいない異邦人をも、何の分け隔てもなく受容していったイエスの「無条件のゆるし」の福音こそが、「敬虔な」ユダヤ人を激怒させ、その結果としてイエスの「十字架」の死を惹起してしまたのだからである。』
この、イエスの無条件のゆるしの福音、というところを読みながら、言葉がつかえてうまくでない自分を、実は自分自身を赦していない、というか自分自身が責めている、少しの失敗でもそのことにひたすらこだわっているんだということに気がつき、そうかイエスさまはそんな自分も受けとめてくれて赦してくれているんだと思い、一体自分は何をやっているんだろうと思いまた少し安心しました。
それで昨日久しぶりに結婚式だったのですが、祈ったから大丈夫だったと言えたら格好良いのかもしれませんが実際はそうもいかず、相変わらず心配し緊張する気持ちはいっぱいありました。ふと失敗したら失敗したでええじゃないか、と思って妙に落ち着いたり、やっぱり心配がふくらんできたりと、本番寸前までその繰り返しでした。本番は多少つかえたりしながら、それでも結構落ち着いてできたような気がしています。
見えないものに目を注ぐ、見えない神を信じるというのは結構大変だなと思いますが、でも見えるものがどれほど確かなのかと考えるとそれだってそれほど確かというわけでもないよなあと思っています。
赤字は大変だし、うまく話せない自分も大変ですが、確かにとても心配ですが、でもそれだけじゃないんだと思います。むしろ見えないものによって私たちは多くを支えられているのかもしれません。
見えない神の支え、守りを私たちはもっと信じて信頼していいんじゃないかと思えてきました。というか信頼しなさい、信じてみなさいよ、と聖書を書いた先人たちはそれを伝えているんだろうなと思います。