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礼拝メッセージより
「主の言葉」 2012年6月10日
聖書:サムエル記上 3章1-18節
ともし火
「ともし火は消えておらず」ともし火とは、夜中つけている火だそうで、その火が消えておらずというのはもうじき消えそうだけれども消えていない、つまり夜明けが近い時間のことだそうです。
聞いております
その頃神の箱が安置された主の神殿に寝ていたサムエルに、主が呼ばれた、と書かれています。そう呼ばれたサムエルはエリが呼ばれたのだと思いエリのもとへ行きます。ところがエリは呼んではいないからお休みと答えます。そんなことが3回あって、エリはそれは主が呼ばれているのだと悟って、サムエルに向かって、「どうぞお話しください、僕は聞いております」と答えるようにと言います。
その後またサムエルは、「サムエルよ」と呼びかけられ、エリから言われたように、どうぞお話しください、僕は聞いております、と答えます。そうすると主は、エリの息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながらとがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、ということを告げます。
サムエルはこの主の言葉をエリに告げることを恐れます。しかしエリは隠してはいけないと言ってサムエルに全てを話しをさせ、主が御目にかなうとおりに行われるように、と言ったと書かれています。
エリが息子たちの悪行を咎めなかったことが罪だと言われていますが、2章12節以下をみると、エリの息子たちの悪行が書かれています。そしてそれに対するエリの対応が22節以下にあって、そこには『 2:22 エリは非常に年老いていた。息子たちがイスラエルの人々すべてに対して行っていることの一部始終、それに、臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共にしていることも耳にして、 2:23 彼らを諭した。「なぜそのようなことをするのだ。わたしはこの民のすべての者から、お前たちについて悪いうわさを聞かされている。 2:24 息子らよ、それはいけない。主の民が触れ回り、わたしの耳にも入ったうわさはよくない。 2:25 人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう。」しかし、彼らは父の声に耳を貸そうとしなかった。主は彼らの命を絶とうとしておられた。』と書かれています。
エリは息子たちの悪行について諭したと書かれていますが、3章では、息子たちの行為を知っていながらとがめなかった罪のためにエリの家をとこしえに裁くというのはどうしてでしょう。
サムエル
主からその裁きを告げられたサムエルがエリにそのことを伝えるのを恐れたと書かれています。決して贖われることのない裁きということで、そんなことを伝えたら一体どうなるのかという恐れたのでしょう。それを聞いたエリが怒るかもしれないと思ったのでしょうか。エリと家族を非難することになるために、エリから嫌われるのではないかと恐れたのでしょうか。あるいは、それを伝えることで自分とエリとの関係がぎくしゃくしてしまうことを恐れたのでしょうか。あるいはそのことを聞いたエリが立ち直れないほどに落ち込んでしまうと思ったのでしょうか。
なんだかガンになり余命数ヶ月になった患者に、本当のことを伝えたらいったいどうなるのかと思うと心配で、とても本人には言えない、というような状況に似ているような気がします。本人がそのことを受けとめることが出来るのかどうか、そしてそのことを知った本人を自分がまた受けとめることができるのかどうかが心配になるのではないかと思います。
サムエルがこの裁きの話しをエリに伝えることを恐れたのは、エリの家族を非難したり叱ったりすることになるからというよりも、その現状があまりに深刻であることを告げられたので、その現状を伝えることでエリが打ちのめされてしまうのではないかと心配したのではないかと思います。
エリ
一方エリは主がサムエルに呼びかけられたことを知っています。エリはわたしに隠してはいけない、一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように、なんてことまで言います。まるで強迫しているかのようです。
エリは、朝方何度か起こされたことで主がサムエルに何かを告げたらしいことは知っています。しかしその内容をサムエルは自分に語らないわけです。主から何かを告げられたはずなのになぜだか自分には伝えない、ということからエリは何か察したのではないでしょうか。自分には言いづらい何かをサムエルは聞いたに違いない、エリはそれが気になって仕方なかったということかもしれません。
エリは息子たちのやっている悪行のことは知っていて諭したこともありましたが、正すことができていませんでした。その事に対してついに主が何かを言われたのではないかということを薄々気付いていたのかもしれません。エリにとっては息子たちのやっていることは頭痛の種であり、息子たち自身のことは心配の種だったのだろうと思います。長年そのことで悩んでいたのかもしれないと思います。
そしてきっとそのことについて主が告げられたのだと思い、何としても聞かねばならないと思ったのではないかと思います。だから隠し立てしたら主に罰してもらうから、と半分強迫するかのようにサムエルに話すようにと言ったのでしょう。
この時サムエルが何歳だったのでしょう。1節には少年サムエルと書かれていますが、主の言葉の内容からそれを話すのを恐れたということは、分別のある年だったのでしょう。
サムエルはエリが主の言葉をなんとしても聞きたい、その言葉を徹底的に受けとめようとしているという熱意というか覚悟を感じたのだろうと思います。だからサムエルはエリの家に対する裁きをそのままに語ることが出来たのだと思います。
サムエルにとっても言い辛いことだったでしょう。でもきっとエリが真剣に聞こうとしていたからこそ、真剣に受けとめようとしていたからこそ話せたのだろうと思います。聞いてくれるからこそ語れる、聞いてくれるという安心感があるからこそ正直に話せるのだと思います。
昔釧路の礼拝で、どこの聖書の箇所か覚えていないけれど、ずいぶん厳しいことを話さないといけない箇所だったと思う。その時は説教するのもしんどくて、結構合間合間にハァーと溜め息つきながら話していました。礼拝の後で教会員から、牧師も辛そうに話してましたね、と言われたことを覚えています。
聞く方も語る方もしんどいということがあります。主の言葉だからこそ聞ける、語れる言葉というのがあるんだろうと思います。エリは、それを話されたのは主だ、と言いました。小さい頃から自分のこどものように育てた、そしてまだ少年と言われるサムエルの言葉を、エリは主の言葉として聞いたわけです。
エリは偉いなと思います。サムエルは主から託された言葉を、主の言葉だ、として聞かれることで、預言者として立てられていくことになったのでしょう。彼はやがてイスラエルの王を見つけ出す大事な役目を果たすことになります。その出発点となったのが、このエリに自分の語る言葉を主の言葉として聞かれるということだったのかもしれません。
誰から何を聞いても、それを主の言葉として聞かないならばそれは主の言葉とはならないのでしょう。そんなこと言われても出来ない、と思うことが多いです。しかし主の言葉を主の言葉として聞きなさい、そう言われているような気がします。