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礼拝メッセージより
「注ぎ出す」 2012年6月3日
聖書:サムエル記上 1章1-20節
こども
今でも結婚してもなかなかこどもが産まれないと、どうして産まないののか、どうして産まれないのとか聞かれて、プレッシャーをかけられ、そのために離婚したなんて話しもよく聞く。
この聖書の時代も、妻がこどもを産めないということは、神に祝福されないということであり、また恥でもあったようだ。そこで最初の妻にこどもができないと2番目の妻を貰うと言う事はそれほど特別なことではなかったようだ。そういうときに夫はすべての妻も差別してはならないという決まりがあったそうだけれど、なかなかそうもいかないのが実際だろう。エルカナの2番目の妻ペニナには息子たち娘たちが産まれたようで、それだけでもハンナには負い目があったのだろうけれど、そのペニナから嫌がらせでも受けていたのだろう、そのことをハンナは思い悩み苦しんだと書かれている。そんなハンナをエルカナが大事にすることで余計にペニナはハンナに敵意を燃やしていたのかもしれないなと思う。
方向性
そして毎年シロで行われていた礼拝に家族で出かけて、いけにえを献げ、その分け前を食べる時、その年ハンナは苦しみが頂点に達したのだろうか、泣いて何も食べようとしなかった。
その時、夫のエルカナが、「このわたしは、あなたにとって十人の息子にまさるではないか」と言ったと書かれている。これはエルカナの優しさだと書いてあるものもあるが、本当にそうなんだろうか。わたしがいるからいいじゃないか、わたしがお前を大事に思っているんだから、ということなんだろうけれど、そして多分エルカナがハンナを愛する気持ちは真実だったのだろうけれど、でもこれはエルカナが言ってはいけない言葉だったんじゃないかと思う。だからこそハンナはこれを聞いても気持ちが収まることもなく、その後泣いて祈るしかなくなったんだと思う。
「言葉の向き」
同じ言葉でも使う人によって意味が違ってくる。「もっと大変な人はいっぱいいる」ということを聞くことがある。ほとんどの場合それは真実だ。しかしその言葉は使い方によって意味が全然違ってくる。
大変な思いをしている人に向かって「あなたより大変な人はいっぱいいる」と言うのと、大変な思いをしている人自身が「私より大変な人はいっぱいいる」と言うのとではまるで意味合いが違ってくる。同じような言葉を使っているようだが、この二つの言葉は反対の方向を向いている。同じような言葉でも時と場所と向きによって意味が違ってくることがある。どこを向いている言葉なのか、それはとても大切なことなのではないかと思う。(2007年 1月21日 牧師のひとりごと)
真実が相手を苦しめることもあると思う。もっと大変な人がいっぱいいるのは真実だろう。でもそれを誰かから押しつけられても余計苦しくなるだけだ。
「十人の息子にまさるではないか」というのは、ハンナが言ったならば重い言葉だけれど、エルカナが言っても、だからあきらめろというような、ハンナを突き放す言葉にしかならなかったんだろうと思う。
誓願
そこでハンナは神殿で主に祈り、激しく泣いた。そして、男の子を授けてくれれば、一生を主にささげ、その子の頭には決してかみそりを当てません、と誓いを立てた。かみそりを当てないというのは誓願を立ててナジル人となる人は頭にカミソリを当ててはいけないという決まりがあって、要するに産まれたらその子を一生神に献げますから、男の子を与えて下さい、と祈ったということのようだ。
続きを読んでみると、こどもが乳離れしたら本当に自分の手から離して神に献げ、祭司のもとで暮らすようになっていて、それは確かにそう誓ったからそうしたんだろうけれど、なんだかなあと思う。
献児式
献児式ってのがある。生まれたこどもを神に献げるという式だ。旧約聖書には、初子を神に献げなさい、とも書かれていて、神から授かったこどもを神に献げて、神の子として育てるということなんだろうと思う。
昔ある牧師から聞いた話しをよく覚えている。その牧師の親も牧師で、あなたは神さまに献げられた子だから、と言われていたそうだ。でもこどもに取ってはそんなのは親が勝手にしたことであって、「そんなのは関係なし」と言っていた。関係ないからどうだったのかという話しは忘れたけれど、献児式したって「俺には関係なし」っていうその言葉を妙に覚えている。
実際そんな生まれてすぐのことはこどもにとっては関係ないようなことなんだろうなと思う。だから献児式ってのは、こどもに向かってお前は神に献げたんだから神を従いなさいというためのものではなくて、親がただ自分の子どもということで自分の勝手に育てるのではなくて、神に献げて神の子として育てていくんだという覚悟をする式なんじゃないかと思う。だから献児式をしたんだからということを、先ほどの言葉の向きとして言えば、こどもに向かって神の子として神の子らしく生きなさいというよりも、親に向かって神の子として神の子らしく育てなさいということなんじゃないかと思う。
今の教会では献児式をしたからと言って、その子をすぐ手放すなんてことはまずないけれど、ハンナは乳離れするまで育てて後は神に献げてそれで満足だったんだろうか。普通自分にこどもが産まれたら、そのこどもとずっと一緒に暮らすということを願うんじゃないのかと思う。
そもそもなぜこどもを献げましょうなんて祈ったんだろうか。確かに一度こどもを産めば、こどもを産めない女という汚名は返上できる。その苦しみがとても大きくてそのことによって惨めな思いをしてきたのだろうけれど、産んだということだけでもう満足だったんだろうか。献げると言わないと与えられないと思ったんだろうか。なんだか不思議な気がする。
祈り
ハンナが神殿で祈っている時、それを見ていた祭司のエリは、ハンナがあまりにも長く祈っていて、くちびるは動いているけれど声が聞こえなかったので、酒に酔っているのだと思ったそうだ。そして「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」と言ったなんて書かれている。ハンナは、酔ったからじゃなくて、悩みが深くて、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからだ、と答えた。それを聞いたエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。これを聞いたハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言って、それから食事したが、彼女の表情はもはや前のようではなかった、と書かれている。
勝手に酔っていると思い込んで諫めたら実は一所懸命に祈ってたなんて、エリはばつが悪くて、じゃあ安心して帰りなさい、と言ったんじゃないかという気がするけどどうなんだろう。
ハンナが食事をとることが出来て表情も変わったのは、やっぱり「主の御前に心からの願いを注ぎ出し」たからじゃないかと思う。ハンナは祈りが聞かれると確信したから食事をし表情も変わったんだという牧師もいたけれど、本当にそうなんだろうか。祈りが本当に叶うかどうかなんてことは、それこそ神のみぞ知ることだろう。本当に叶うと確信できることなんてあるのだろうか。僕はかつてなかったと思う。叶うと確信するなんてちょっと危ないんじゃないのかと思う。人の説教の文句言っても仕方ないか。
確信できるわけではない、叶うかどうかわからない、でもそれこそ心からの願いを注ぎ出す、叶うかどうかは神が決めることだから後は神に託す、それこそが祈りなんだろうと思う。
だいたい心の願いを注ぎ出すなんてことあまりしたこともないという気がする。普通はしないと思うし出来ないんじゃないかと思う。注ぎ出すってのは、それこそ自分の中に閉じ込めることができなくて、自分だけで抱えておくことができなくて、自分だけではどうにもできなくなって初めて出来ることなんじゃないかと思う。
それまでハンナは自分ひとりが苦しみを抱えてきていたんじゃないかと思う。誰かがその苦しみを分かってくれればひとりで抱え込まなくてもよかったのかもしれないけれど、夫のエルカナも、俺がいるからいいだろう、なんてことしか言ってくれない。その苦しさを自分では抱えきれなくて、やむにやまれずということでその思いを神に向かって投げ出したのだろうと思う。
そうしてみたらふっと心が軽くなったなんじゃないかと思う。苦しくてどうしようもなくて祈ってみた、そうしたら重荷が軽くなったということなんじゃないかと思う。それまで重荷や苦しみをひとりで抱えていたのを、その思いを神に語ることで降ろすことができたんだろう。
祈れば楽になれるからということで祈ったんじゃなくて、つまり楽になるための手段として祈ったんじゃなくて、もうどうしようもなくなって祈るしかなくなって、神に向かって苦しいと語るしかなくて、祈ったんだろうと思う。そしてありのままの自分を神の前にさらして、そんな自分を受けとめてもらったことで、ハンナは楽になったんだろうと思う。願いがかなったからとか、祈りが聞かれたからではなく、自分の願いを受けとめてもらったことで、祈りを聴いてもらったことで、ハンナの表情は変わったんだと思う。
私たちの心の中にはきれいなものばかりじゃない。どろどろした思いもいっぱい詰まっている。そんなどろどろしたものも何もかも注ぎ出すことができる、そんなものも受けとめてくれる、私たちの神はそんな神なのだ。
全部注ぎだしても大丈夫だ、全部私が受けとめる、私はお前の全てを支えるのだ、神は私たちにそう言われているのではないだろうか。その神とつながること、それが祈りなんだろうと思う。