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礼拝メッセージより
「力はどこから」 2012年5月27日
聖書:士師記 16章15-31節
サムソン
サムソンの話しは13章から始まる。例によって、イスラエルの人々が主の目に悪とされることを行い、イスラエルは40年にわたってペリシテ人に占領される。
その頃ヘブライ人のダン族のうちに子供に恵まれない夫婦がいた。ある日神の使いが現れて言うには「あなたは男の子を産む。その子はナジル人なので、その子の頭に剃刀を当ててはならない、彼はペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」という一方的なお告げの結果、サムソンが生まれる。
〈ナジル人〉(5)は,「聖別された者」の意.民6:1‐21に誓願の規定が詳述されているが,ここでは以下の3点が取り上げられる.@酒を飲まない,A汚れた物を食べない,B頭にかみそりを当てない.民数記によると,このほか死体に近付いてはならない条項があった.誓願には一定期間のものと終身のものがあり,サムソンは明らかに後者だが,これに伴いその父母も一時的にナジル人として生きることが要求された(13:4,14).(聖書の達人2より)
サムソンは神から授かった怪力の持ち主として成長し、異教徒ペリシテ人の娘に恋をします。両親は『私たちの民のうちに女がないとでも言うのか』と反対したが、「あの娘が好きだから妻として迎えてくれ」と頼み込み、その娘をもらい受けに行く。その途中でライオンと遭遇、何と素手でライオンを引き裂いてしまう。
ペリシテ人を招待した婚礼の宴会でサムソンは、余興に謎をだし、賭けを挑みます(14・12)。謎が解けないペリシテ人は困って、新郎のサムソンから答えを聞きださないと、焼き殺すと同族の新婦を脅迫します。新婦は14:16夫に泣きすがって言った。「あなたはただわたしを嫌うだけで、少しも愛してくださらず、わたしの同族の者にかけたなぞの意味を、このわたしにも明かそうとなさいません。」と。
しつこくせがまれたサムソンは、とうとう、その謎の答えを花嫁に洩らしたため、ペリシテ人との賭に負けてしまい罰金の「着物30着」を払う羽目になります。
サムソンは負けた悔しさに、賭けの負けとしてペリシテ人を30人殺し、はぎ取った着物30着をペリシテ人に与えて、「彼は怒りに燃えて自分の父の家に帰(14・19)」ります。短気なサムソンです(14・19)。
そののち思い直して和解しようとして妻の家を訪れたサムソンに対し、妻の父は、娘は彼に嫌われたと思い、サムソンの友達に嫁がせてしまったから、その妹を代わりに娶ってくれと頼みます。
しかし、妻を奪われ怒リ狂ったサムソンは、ペリシテ人への報復として、今度はジャカル3百匹に松明を結び付けて放ち「刈り入れた麦の山から麦畑、ぶどう畑、オリーブの木に至るまで燃やし」て、ペリシテ人を怒らせます(15・6)。
怒ったペリシテ人は、仕返しにサムソンの妻とその父を焼き殺します。ますます怒ったサムソンは報復を誓います。「これがお前たちのやり方なら、わたしはお前たちに報復せずにはいられない」と。
余興のなぞ解きから始まった事件は益々エスカレートしてゆき、個人的係争から、遂に民族間の紛争に発展します。
サムソンを捕らえようとユダ山地に攻め上ってきたペリシテ人の抗議に(15・9)、ペリシテとの共存を願う同胞ユダの人々は、「我々がペリシテ人の支配下にあることを知らないのか。なんということをしてくれた。」とサムソンを捕えて、縄に掛けペリシテ人に渡します。
ところがサムソンは簡単に縄を切り、その辺に転がっていたロバの顎の骨をふり回してペリシテ人1000人を殴り殺す。
次にサムソンはガザに行き、そこで遊女を見つける。そこをペリシテ人が夜襲をかけようとしたが、サムソンは町の門と扉と両脇の門柱をひき抜いて山の上まで持っていったしまう。
サムソンは、今度はソレクの谷に住む美女デリラに惚れてしまう。ペリシテ人はデリラを買収して色仕掛けでサムソンの弱点を見つけようとする。
「あなたの怪力がどこに秘められているのか、教えて下さい。あなたを縛り上げて苦しめるにはどうすればいいのでしょう。」勿論もっともっと甘い言い方と甘い声だったに違いないと思うけれど。「乾いたことのない7本の弓弦で縛ればいいのさ」
そんなことを3回繰り返して、それでもひるまず何度も聞いてくるデリラに耐えきれずになのか、それ以上ウソを繰り返して嫌われたら困ると思ったのか、とうとう髪の毛を剃られたら弱くなると本当のことを告げてしい、デリラの膝枕で寝ている時にサムソンは髪の毛をそられ、ペリシテ人に捕らわれてしまう。
両目を潰され、鎖に繋がれて石臼を轢かされるサムソン、やっとこれで一安心のペリシテ人は宴会の余興に彼をさらし者にして楽しもうとする。ところが監禁されている間に彼の髪は伸びていた。「神よ、今一度だけ私に力を与え、復讐をさせて下さい」、渾身の力で神殿の柱を押すサムソン、巨大な石の神殿は、3000人のペリシテ人、デリラ、そしてサムソン本人を飲み込んで音を立てて崩れ落ちた。
サムソンは20年間、士師としてイスラエルを裁いたと書かれているが、実際にはしたことは、時々頭にきてペリシテ人を殺したことのようだ。そのサムソンの力を恐れたペリシテが攻めてこなかったことでイスラエルが守られた20年間ということだったようだ。
力
しかしこのサムソンの力はどうしてなくなったり甦ったりしたのだろうか。髪がなくなれば力がなくなり、髪が伸びればまた力が甦ってくる、ということなんだろうか。
デリラの時に髪の毛をそられた時に力がなくなった。しかしそこには主が彼を離れられた、とも書いている。神はスキンヘッドは嫌いなのか?
神は細部に宿る、という言葉があるけれど、まるで神は髪に宿る、とでもいいたげだ。サムソンも単純に髪を剃れば力がなくなると思っていたんだろうけれど、本当は髪を剃ることで主がサムソンを離れて、その結果力がなくなるということなんだろうと思う。
後になって髪は伸び始めはしただろうけれど、やっぱりサムソンの最後の力はそこで神に祈ることで与えられたものだろうと思う。
怪力というものを与えられて生まれてきたサムソンだった。その力で自分の気に入らない者たちをやっつけてきたり、鬱憤を晴らしてきたのだろう。でもその力をなくしたとき、サムソンは初めてまともに祈っているようだ。なくして初めてその大切さに気付くなんてことが本当に多いけれど、サムソンもそうだったんじゃないかと思う。
その祈りに応えて神は力を与えたのだろうし、その力は髪にあったのではなく、神から与えられていたということなんだろうと思う。
自分の力をなくし、今まで当たり前にできていたことができなくなり、すぐにやっつけていた敵にやっつけられてしまった。サムソンは力も希望もなくしてしまったことだろう。でもそこでサムソンは祈った。神はそんなサムソンの祈りを聞いていた、そしてそれに応えた。
力をなくし、すっからかんになり、希望もなくすような時、そんな時でも神は共にいてくれていること、そんな時の祈りを聞いてくれていること、そのことを教えてくれているのではないかと思う。
今日はペンテコステ、十字架でちりぢりになっていた、そして隠れていた弟子たちが聖霊によって力づけられ勇気づけられイエスのことを伝え始めた日だ。師匠を裏切り、行き場もなくて彷徨っていたような弟子たちが、イエスこそキリストだと言い始めた日だ。
その弟子たちを力づけた聖霊は、私たちをも力づけてくれるに違いない。何もかもなくしたとしても、何も出来なくなったとしても、私たちの神は共にいてくれる、私たちの祈りを聞いてくれているのだ。