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礼拝メッセージより
「誓うな」 2012年5月20日
聖書:士師記 11章1-11節
またかよ
10:6-7 「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。彼らは主を捨て、主に仕えなかった。主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡された。」
いつもの繰り返し。調子がよくなると主を忘れて他の国々の神に仕え、他の国の脅威にさらされると、今度は又主に助けを求める。今回主はイスラエルの人々に対して、前もお前達を助けたのに、わたしを捨てて他の神々に仕えたではないか、もうお前達を救わない、お前達は他の神々が救ってくれるだろう、と突き放す。それでもイスラエルの人たちが、自分達は罪を犯した、どうか救って下さい、と言った。10:16には、「彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになったので、主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった」と書かれている。一度は突き放したけれども、そこまで頼られて知らん顔をするのに耐えられなくなったらしくい。
エフタ
そこに登場するのがエフタ。11章はそのエフタの生い立ちが書かれている。勇者であった、とあるように力があって戦いに強い人だったのだろう。
エフタは遊女の子であり父親はギレアドである。11:1にギレアドの人エフタとあるように、ギレアドはその地方の地名でもある。12部族のひとつガド族がモーセから分け与えられた土地だそうだ。エフタの父親はそのギレアド地方に住んでいるギレアドさんらしい。
このギレアドさんは遊女との間にエフタを産み、その後正妻との間にも子どもをもうけた。そして正妻の子が成長すると、エフタに向かって、あなたはよその女が産んだ子だから何も相続する権利はないということで追い出してしまった。ということはそれまで一緒に住んでいたということらしい。
追い出されたエフタはトブという所に住み、ならず者と行動を共にするようになった。
アンモン
しばらくしてアンモンが戦争をしかけてきた。そうするとギレアドの長老たちがトブまでやってきてエフタを連れ戻そうとした。指揮官になってアンモンと戦ってくれということだった。ならず者と共に行動して力もあり、ならず者をまとめる指導力もある、というような噂でもあったのだろう。
邪魔者扱いして追い出しておいて、困ったことになったら帰ってこいなんて勝手すぎるだろうと誰もが思うだろう。
でも追い出したのはエフタの弟たちだったのだから、ギレアドの長老たちとどういう関係があるんだろう。一族郎党了解済みで追い出していたということだろうか。
エフタは、勝手なことを言うなと答えたけれども、ギレアド全住民の頭となっていただきますと言われ、ただ戦いの指揮官ではなく、民の頭になるということを確認し、そのことを主の御前でも繰り返して了承した。
戦い
その後、エフタはまずアンモン王と交渉したということが12節以下に書かれている。土地を返せ、いや返す必要はない、というようなことで交渉は決裂し、29節には主の霊がエフタに臨んだと書かれていて、そこから戦いが始まり、アンモンへ向かって兵を進めた。
その時エフタは主に誓いを立てた。30節後半から「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるのなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」と誓ったなんてことが書かれている。
しかし旧約聖書では、こどもを火に投げ込んで献げるというようなことを異教の習慣として禁じている。でもそういう習慣が広まっていたということなんだろう。
34節のところで、エフタは戦いに勝ち家に帰る。そうすると自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で他にこどもはいなかった。一度口にした誓いは鉄の掟と考えられていたようで、この娘を焼き尽くす献げ物としないといけなくなってしまった。娘も逃れようがないと思っているようで、ただ二ヶ月間自分が処女のままであることを泣き悲しむ猶予をもらった。当時女性は、妻となり母となることが幸福であり、それが叶わないことは不幸であり恥であると考えられていたそうで、そのことを嘆き悲しむ二ヶ月ということらしい。そしてその後献げ物とされ、そこからイスラエルの娘たちは年に四日間、エフタの娘の死を悼んで家を出るというしきたりができた、と書かれている。
しかしなんで家から迎えに出てくる者を焼き尽くす献げ物とするなんて言ったのだろうか。それほど主の助けが欲しかったのか。それほど自信がなくて不安だったのだろうか。でも迎えに出て来た者を献げ物とするなんて勝手な言い分だと思う。自分がくるしい思いをするとか、自分の命を献げるとかならまだ分かる気もするけれど。家の者を献げ物にするということは確かに苦しいことではあるけれど。
そもそも誰が迎えに出てくると思ってこんなことを誓ったのだろうか。なんだかわけが分からない。
そしてこんな誓いは有効なんだろうか。守らないといけないのか。ついついおかしなことを口走ってしまいました、と謝ってすまないのだろうか。神はそれを許さないのだろうか。
似たような話に、アブラハムがイサクを献げようとした話がある。あの時は神が身代わりの羊を用意されていた。でも今回は身代わりはないようだ。アブラハムの時には、主の命令で献げるようにということだったけれど、今回はエフタが自分が勝手に誓ってその通りにしただけだ。その間主は何も語ってはいない。エフタが誓った時にも、答えてもいないし、娘を献げる時にも主の言葉はない。
誓うな
イエスは誓うなと言っている。(マタイによる福音書)
5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
これを献げるからこうして下さい、自分はこうするからあなたはこうして下さい、というのは取引だ、と誰かが書いていた。主に対して誓ったことは必ず果たす、というのは立派なことではあるのだろう。けれどイエスは誓うなと言っている。それは主と取引をするなと言われているということなんじゃないかと思う。それは主は取引をする相手ではないというか、取引をしなくてもいい、と言おうとしているのではないかと思う。取引をするときには、取引をする材料を自分が持っていないといけない。
イエスは、求めなさい、そうすれば与えられる、と言われた。主は取引する相手ではなく、求める相手なのだと思う。取引しないといけないとしたら、求めるものに相当するものを自分がもっていないといけない。でも求めるのであれば、自分は何ももっていなくてもいい。
生まれたばかりの赤ん坊が、母乳を求めるのに取引をしないように、私たちも神と取引する必要はないのだろう。
立派な信仰、立派な行い、高額な献金、そんなものを材料にして初めて神に求めることができるような、逆にそういうものがなにもない自分には神さまは目を注いでくれないような、何も求めてはいけないような、そんな思いに私たちもなりがちなのではないかと思う。
何もない、何もできない私たちを神は見てくれている。
だから誓うな、誓わなくてもいい、取引なんてしなくてもいい、ただ求めなさい、それでいいんだ、お前に何もなくても必要なものは私が与える、それを感謝して喜んで生きて欲しい、神はそう言われているのではないか。