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礼拝メッセージより
「先立つもの」 2012年5月6日
聖書:士師記 4章1-16節
士師
カナン征服から王国設立までの期間における、イスラエルの政治的宗教的指導者。言語の意味は「治める者」あるいは「裁き人」。「士師」という呼び方は中国語聖書に由来する。
士師の中には、他民族からの圧迫から民を救う士師と、外敵の攻撃とは直接関係しない裁判人や仲裁者であった士師とがいた。
士師記1章には、モーセの後継者であるヨシュアも死んだ後の、カナンの占拠状況が書かれている。ユダ族が先鋒となって、シメオン族と協力してイスラエル南部に進行した。そして山地は征服したけれども、海沿いの平野は戦車がないので征服できなかった。
そうやって定着し始めたイスラエルの諸部族の土地に、近隣諸外国が侵入し始める。しかしその原因はイスラエルの民が神との契約に背き、民が堕落し始めたからだとしている。
デボラ
女預言者で士師であったデボラの時代も、イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行っていたと書かれている。そのため20年にわたって、カナンの王であるヤビンの圧政に苦しめられていた。ヤビンは鉄の戦車900両を所有していて、力ずくで押さえつけた。そういうことで、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。主の目に悪とされることを行っていたというのに、苦しくなるとやっぱり主に助けを求めたということなんだろうか。
しかし神はそれに応えて士師を立てる。その時士師として立てられたのがデボラだった。彼女はエフライム山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめやしの木の下に座を定め、イスラエルの人々は裁きを求めて上ることにしていたと書かれている。場所は南のエルサレムの近くの方で、すでに預言者として認められていた人だったようだ。
このデボラがナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せて、「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万人を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と」なんてことを言った。主がお命じになったではありませんか、と言われてもバラクにとっては、そんなこと聞いてませんよということなんじゃないかと思うけれど、「あながた共に来て下さるなら行きます。もし来て下さらないなら、わたしは行きません」と答えた。預言者であるあなたが一緒に来てくれるならいいけれど、そうじゃなかったら行かないということだ。ナフタリ人とゼブルン人一万人と言っても、兵士ではなく普通に農業をしているような人たちをかき集めたようなものだったろうし、そんな者たちで戦車を900両も持っている軍隊に向かっていくというのは相当無謀なことだったんだろうと思う。
デボラは、一緒に行きますが、栄誉はあなたのものにはならない、主は女の手に敵の将軍シセラを売り渡される、と行ってバラクと共にケデシュに向かった。
戦い
そこでいよいよ戦いが始まる。バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに招集し、タボル山に上る。その知らせを聞いたシセラは900両の戦車と自分の軍隊を招集し、ハロシェト・ハゴイムからキション川に向かわせる。
デボラはバラクに、「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先だって出て行かれたではありませんか」と言った。
そこでバラクは一万の兵を従えてタボル山を下った。すると主は、シセラとそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられ、シセラは車を降り走って逃げた。
どうしてそんなことになったのか、ここでは書かれていない。5章にこの戦いのことを歌った歌が出てくる。5章4節に、「主よ、あなたがセイルを出で立ち、エドムの野から進み行かれるとき、地は震え、天もまた滴らせた。雲が水を滴らせた」と書かれている。シセラの軍隊が向かっていたキション川は全長37km位の川だけれど、いつも流れているのは下流の10km程度で、残りは夏の間は涸れていて、右記に降水があると氾濫して泥沼になる川だそうだ。この時、丁度雨が降って泥沼になり戦車がそのぬかるみにはまってしまって身動きが取れなくなり、そこをイスラエルの兵士がやっつけたというなんだろうと思う。
シセラ
そこを逃げ延びたシセラは、当時友好的だったカイン人へベルの妻ヤエルの天幕に逃げたが、そこで疲れて眠っているところをヤエルにこまかみに釘を打ち込まれて死んだ。友好的だったカイン人のヤエルがなぜシセラを殺害したのかはよくわからないが、デボラが最初に言っていた通りに、主は女の手にシセラを売り渡される、ということになった。デボラも女性であり、この戦いは女性による勝利ということになりそうだ。
先立つもの
この戦いの中で、バラクはどんな気持ちでいたのだろうか。バラクは自ら進んでこの戦いにやってきたわけではない。デボラに呼び出されて、彼女の言うとおりに従っているだけだ。いやいややっているというわけではなく、自分達の民を解放したいという思いもきっとあっただろうから、それなりに覚悟をもってやっているとは思う。けれど、デボラに対して、あなたが一緒なら行く、一緒じゃないなら行かない、と言ったように、ずっといろんな不安をいっぱい抱えていたのではないかと思う。なにしろ敵は900両の戦車を持つような強力な軍隊で、自分達はただの農家が歩兵になっただけというようなものなのだ。
預言者であるデボラは敵の将軍を自分の手に渡すと言ってくれている。デボラ自身も一緒に来てくれている。そして決戦当日には、神が先立って出て行かれたとも言ってくれている。
でもきっとバラクは、神が先立ってくれるならという希望と同時に、本当に大丈夫だろうかという心配と不安、そんな思いをいっぱい抱えつつ進んで行ったのだろうと思う。本当に神が先立ってくれていたのだ、と確信したのは戦いが終わってからだったんじゃないかと思う。
見えない
心配なことがいっぱいある。どうなることかと不安がいっぱいある。解決の道筋が見えていたらそんな心配もないと思うけれど、それが見えないと心配だらけ。バラクは戦いに勝つという約束はしてもらったけれど、いったいどうやって勝つのかは分かっていない。主が先立って行かれたと言われたけれど、その主も見えない。でもバラクは従っていった。きっといっぱいの心配と不安を抱えつつ彼は従っていったのだろう。主が先立つという言葉を信じて、その言葉に賭けてと言った方がいいような気がするけれど、この主に自分達の命運を託して出ていったのだろう。
そこでバラクは本当にそうだったのだということを経験したんだろうと思う。主の力を経験したのだろうと思う。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」コリントの信徒への手紙二4:18
神は見えない、神の業も見えない、導きも見えない、でも見えないけれどここにある。
見えない神が先に立って歩いてくれている、見えないけれどもいてくれている、気づかなくても先に立ってくれている。神は、私はここにいるよ、と私達のすぐ目の前で言われているのではないか。