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礼拝メッセージより
「束縛」 2012年4月22日
聖書:使徒言行録 16章25-40節
獄中
1992年、日本人の40〜60代の男女4人は、他のグループの参加者3人を加えた7人でオーストラリア旅行を計画し旅立った。途中、中継地のマレーシアのクアラルンプールで食事中に、この4人がスーツケースを盗まれてしまった。その後、4人はガイド(旅行社)が用意した新しいスーツケースで旅を続け、到着したオーストラリアのメルボルン空港でこの4個のスーツケースの二重底から計13キロのヘロインが見つかり、ツアーの主催者と一緒に逮捕されたということだ。オーストラリアの裁判では片言の日本語しか話せない通訳しかつかなくて結局懲役15年の刑が確定して、無実を訴えつつ服役している、
という話しを見た。
そんな話しを聞くと、無実の罪で服役する時ってどんな気持ちになるんだろうかと思う。悪いことはしてないんだ、何故分かってくれないのか、どうしてこんなことになってしまったのか、おかしいだろう、と思うに違いない。それでもそれを聞いてはくれず、ずっと閉じ込められたまま月日が過ぎていくなんてのは想像するだけでもたまらない。
占いの霊
16章11節を見ると、パウロたちがフィリピの町にやってきた時、祈りの場所に行く途中に、占いの霊に取り付かれている女奴隷に出会った。
フィリピはそれはローマの植民都市で、戦略上の重要拠点であり、ローマの兵士の一団が駐屯していた。
フィリピにはユダヤ人の会堂がなかったらしい。会堂がないところでは、ユダヤ人は祈りの場所を持っていて、それはたいてい川の畔だったそうだ。そういうところにこの占いの霊に取りつかれたと言われる女奴隷がいたのだろう。
この占い師は未来を予言する神の託宣、おつげを与えられる人であった。今の感覚から言うと、この人は精神的な病気を持つ人だったのかもしれない。古代社会では神々の心を入れるために正しい分別をその人から取り去っているという考えがあり、このような人たちは尊敬もされていたそうだ。そしてそういう人たちを利用する輩もいた。彼らは神の御告げを聞く者から謝礼を取っていた。
この女がパウロたちの後についてみんなに言いふらす。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」。内容としては間違っていない。そのままパウロたちもこの女を利用して自分たちの宣伝をしたらよかった?。この占い師も告げている通り私たちは真の神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです、と。でもパウロたちはそうはしなかった。何日もこんなことが続いたためにパウロはイエスの名によってこの霊を追い出した。
商売の邪魔
この女奴隷の主人たちは、占いができなくなってしまい、金儲けが出来なくなったということに腹を立ててパウロたちを役人につきだす。それも内乱罪、騒乱罪?として。頭に来たらなりふりかまわずやってしまう、という感じ。そしてパウロとシラスは捕まえられ鞭で打たれ、しかもご丁寧に一番奥の牢に木の足枷をはめられて入れられてしまう。
占いの霊に取り憑かれていたような、それは妄想だったのか何だったのかよく分からないが、その女性を助けた、そんないいことをしたはずなのに、ひどい目にあってしまう。
讃美
しかしパウロとシラスはその境遇を呪うこともなかったようだ。そんなのは当たり前だったのだろうか。真夜中ごろに彼らは讃美歌を歌い祈っていたという。そしてその時大地震が起こった。牢の戸が開き囚人の鎖も外れてしまう。
看守
このことに一番びっくりしたのは牢の看守だった。
ローマの法律に従えば、囚人が逃亡した場合、看守はその囚人が受けるはずの罰を負わないといけないとされていた。死刑囚を逃がすと死刑にされてしまうということのようだ。
そこでこの看守は、牢が開いてしまったのだから当然囚人は逃げていると考え自殺しようとする。この後の自分に対する罰を考えると恐ろしくてたまらなかったのだろうか。思いもよらない大変な事態に彼の頭の中は相当に混乱していたに違いないだろうと思う。もう自分ではどうすることもできない事態が起こってしまい、その後の処罰に対する恐怖と、そのことに対して何も出来ないという自分の無力感に襲われていたのではないだろうか。そこでもう死ぬしかないと思ったのだろう。
束縛
しかしパウロたちは逃げないでそこにいた。逃げる自由を与えられたのにあえてそこにとどまっていた。何が彼らをそうさせたのだろうか。
私たちは牢屋の中には自由はないと考えている。牢屋の外にこそ自由はあると。足枷をされていないことこそが自由であるというふうに思っている。でも実は案外そうでもないらしい。
牢屋の中にいたパウロとシラスは真夜中に讃美歌を歌い祈っていたというのだ。足枷もされていたが、でも心は誰にも縛られてはいないようだ。足枷はされていても、自由な気がする。自由とは自分の体を思い通りに動かせることとはちょっと違うみたいだ。
身体は自由に動かせても、私たちは結構いろんなものに縛られていると思う。
昔学校に行っている時も会社に行っている時も、日曜日の夕方が近づいてくるといつも憂鬱だった。明日からまた学校かとかまた仕事か、なんて考えると憂うつで、休みにもあまり休めないようなところがあった。そのころ雑誌か何かで、どこかのテレビ局のアナウンサーが、休みの日は夜遅くまで楽しく遊ぶと書いてあって、次の日は朝から仕事があるというのに、そんなことができる人がいるのかと知ってびっくりしたことがあった。
案外自分を縛り付けているのは自分自身かもしれないと思うようになった。
この前の祈り会でマタイによる福音書6章を読んだ。そこには「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と書いてあった。
明日のことや明後日のこと、そしていろんなことを思い悩んで、そのことに縛り付けられてしまって、それで動けなくなってしまっているなと思う。
牢に入っていても、牢に入れられてしまった、何ということになってしまったのか、俺は何て不幸なんだ、何て惨めなんだ、と嘆くばかりだったとしたら、それこそどんどん不幸になっていくような気がする。けれどもパウロとシラスは牢に入れられているから不自由であり不幸であり、何とか早くその不自由と不幸から抜け出さないといけないとは考えていなかったようだ。
【ガラテヤの信徒人への手紙5:1】「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」という言葉がある。この自由はたとえ牢につながれてもなくならない自由なのだろう。どんな境遇でも持つことの出来る自由なのだろう。
宝
何物からも縛られない自由をイエス・キリストは私たちに与えてくださっっていると聖書は告げる。キリストによって与えられた自由、それこそが私たちにとっての宝なのではないか。
実は私たちを自由でなくし、縛り付ける最大のものは自分自身なのかもしれないと思う。こうしなければ、ああしなければ、これはいけない、あれはいけないという声をいろんな所で聞く。そしてその声を取り込んで実は自分自身で自分を縛りつけていることが多いような気がする。男らしく女らしく、なんてのから、クリスチャンらしくなんてものまでいろいろなものがある。それもそうしないとなんとなくまわりの目が気になるから、なんてことで本当の自分でない、うその自分を演じてしまうことが多い。
なるべき人間になれないということで自分を責めてしまう。自分で自分を責めるということは本当に苦しい。
束縛から解放されると言う事は本当の自分でいるということだろう。キリストが私達を自由にしてくれたということは、本当の自分でいいんだ、本当の自分でいなさい、ということなんだろうと思う。
冤罪で服役したらどんなだろうという話しをしたけれど、それさえも受け入れることができたらすごいなと思う。束縛されて服役させられるわけだけれど、そこが自分の世界だと思えたとしたら、それはもう自由にされているのに近いような気がする。開放されるまではそこが自分の世界だと思えたらずいぶん違ってくるような気がする。ここで神と共に生きるという感じになったら凄いなと思う。
パウロたちもそんな気持ちだったのかな。牢屋の中だろうが外だろうが、いつも神と共にいると思えるならば、それこそが本当の自由なのではないか。
今私たちが置かれている境遇がどんな状態でも、そこで私たちが神と共に生きることができる。そこに自由があるのだろう。本当のあなたでいなさい、そのあなたが大事だ、そう言ってくれる神と共に生きよう。