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礼拝メッセージより
「祈りから行動へ」 2012年4月15日
聖書:使徒言行録 13章1-12節
お告げ
ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。(使徒11:19-26)
こういうことでアンティオキア教会ができた。そこで礼拝し、断食していると、バルナバとサウロを宣教旅行に送り出すようにと聖霊が告げたというのだ。そこでまた断食して祈って二人を送り出した、というわけだ。
二人はヨハネとかマルコと言われる助手と一緒に、セレウキアからキプロス島へ渡った。まずサラミスに着いて、島全体を巡って、パフォスまでやってきた。
そこでバルイエスという魔術師、偽預言者と出会った。バルというのは子供という意味で、バルイエスとはイエスの子、という意味になる。この男はこの地方の総督と交流があったということで、この総督がバルナバとサウロを招いて神の言葉を聞こうとしたことが気に入らなかったようで、どうやら邪魔しようとしたらしい。魔術師エリマと書かれているのもこの男のことのようだ。邪魔しようとしたけれども、逆にパウロから叱責されて目が見えなくなってしまい、そんなこともあって総督は主の教えを信じるようになったという話しだ。
自分の魔術によってお告げをして、総督もお得意様だったのじゃないかと想像する。そこにバルナバとサウロがやってきてことで、総督が自分のことを信じなくなることを怖れて邪魔しようとしたんじゃないかと思う。
そんな邪魔は入ったけれども、魔術師の目が見えなくなったことから総督が信仰に入ったという。神様の言葉に従っての行動だけど、何もかも順調にいくというわけではない。邪魔がはいることもある。でもそのことによって却ってうまくいったという感じ。
祈り
バルナバとサウロは聖霊に告げられて送り出された、と書かれている。それは礼拝し断食しているとき、祈っている時ということなんだろう。もちろんスピーカーから聞こえるように告げられたわけではなくて、心の中に沸き上がるようにして告げられたのではないかと思う。しかし、祈ることで自分達が行動を起こしていくというのはすごいなと思う。
誰かのことを、守ってください、支えてください、祝福してください、恵を与えて下さいとよく祈る。そんな時、神様が誰かのところへ行って守ってくれることを願うけれど、誰かのためにあなたがこれこれをしなさい、という声を聞くことはないなと思う。自分は祈ったから、後は神様の仕事、というような気持ちでいることが多いような気がする。
だから祈ることで、そこから自分達が何をするのかを聞いて動き出すというのはすごいなと思う。
祈りとは神を変えることではなく、祈る者を変えることだ、と聞く。祈るとは、この人のことを神さまよろしく、と言って神を動かすということもあるのかもしれないが、それと同時にあるいはそれよりもその人のために私に何ができるでしょう、何をすればいいでしょうということを聞いていくことなのではないかと思う。祈りは神を変えるのではなく、自分が変わることだというのはそういうことではないかと思う。教会では、あの人のことを祈っています、とよく聞くけれど、それはその人のために自分に何が出来るかを神に聞いていくことでもあるのではないかと思う。
時々祈ることが大事なのか、行動することが大事なのかどちらが大事なのかというような事を聞く。けれども祈りと行動は別々なのではないと思うのだ。祈るから祈っているからそれ以上何もしないというのではなく、祈るから何かを始める、電話をしようとか手紙を出そうとか、いろいろあると思うけれど、祈りから行動が起きてくるというか、祈ることと行動することとは切り離せないようなことのように思う。
だからアンティオキアの教会では、そんな祈りの中で自分達の教会から宣教師を派遣しようということになり、バルナバとパウロを送り出したんだろうと思う。
しかし神様に言われてもなかなか動き出さないのが私たちの常ではないかと思う。たとえ神様の命令だと思っても、そんなことやりたくない、できない、やめてくれ、と思うことが多い。それに従う勇気と力をこそ私たちは神に求めていかないといけないのかもしれない。
神は私たちに何をしなさいと言われているのだろうか。