聖書:ルカによる福音書 23章55節-24章12節
心配
いつも言うことだけれど、僕の人生の大半は不安と心配で出来ていると思う。いろんなことをいつも心配している。何かちょっとうまくいかないことがあるとそのことの心配ばかりしている。それに対処すればいいのに、対処しないで心配ばかり。今日の礼拝もみんな来てくれるのかと心配し、教会の会計も赤字続きで、新年度は大丈夫だろうか、もう牧師も雇えないと言われたらどうしようか、なんて心配している。今の所は絶望とまではいってないけれど。
埋葬
今日の聖書には絶望的な状況に追い込まれた人たちのことが出てくる。
婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。
安息日が始まる前の日、つまり金曜日にイエスは十字架に付けられた。そしてその日の夕方には墓に入れられた。
ユダヤの一日は日没とともに終わる。そして次の一日が日没とともに始まる。
墓に埋葬されたのが夕方であったということはその日がもうすぐ終わり、次の日が始まろうとしている時だった。次の日とは安息日で、安息日には労働をしてはいけない、決まった距離よりも遠くへは行ってはいけないという決まりがあったそうだ。そこで婦人たちは安息日が終わってから墓に行くことにしたのだろう。
安息日
イエスについてきた彼女たちにとってはつらい沈黙の続く一日であったに違いない。彼女たちは事の成り行きをずっと見守っていた。この数日の出来事を見ていた。そして、イエスが十字架で処刑されたことによって、どれほどのショックを受けたであろう。イエスは捕らえられ、事態は思わぬ悪いほうへと向かっていった。そして結局は最悪の結果となった。
しかし彼女たちはそこを去ろうとはしない。死んでしまったイエスにも関わり続けようとする。男たちはみんなそこを去ってしまった。彼らは気が動転して、また自分自身の身の危険を感じてか、その場所にいることができなかった。婦人たちはイエスの遺体の処理を早くしなければ、という思いで安息日が終わるのを多分待ちかねて香料を持って墓に向かった。夜が明けて明るくなるのを待ちわびて墓に向かって行ったのだろう。
石
しかし彼女たちにとってまだ大きな問題が残されていた。それは墓の入り口の石が封印されていること、そして他の福音書によればそこには番兵もついているということだった。番兵を説得して、石をどけてもわらないことには遺体の処理をすることはできない。彼女たちの計画はまるで実行できない。大きな問題を抱えてもなお彼女たちは動き出している。動かないではいられないと言った方が正確かも。
しかし墓に着くと石はすでにわきに転がしていたという。そしてそこにあるはずのイエスの遺体が見あたらなくて、輝く衣を着た二人の人、天使が現れた。そしてなぜ生きている方を死者の中に探すのか、かねて言っていたことを思い出しなさい、十字架につけられ三日目に復活することになっていると言われたではないか、なんてことを言った。婦人たちは弟子たちにことの次第を話した。けれども使徒たちは婦人たちの言うことを信じなかった。ペトロは墓に確認に行ったけれども亜麻布しかなくて驚いたと書かれている。
復活
イエスについて行った女たちや弟子たちは復活のイエスに会ったことが聖書に記されている。
イエスの弟子たち、ここでは使徒と言われているが、家族も仕事も何もかも捨ててイエスに従っていたのだ。イエスの呼びかけに応えて、弟子となることを誇りに思ってついてきていたのだろう。いろんなイエスの奇跡も目撃し、イエスの言葉に諭されたり感動したりしながら、この人は偉大な人だという気持ちもだんだんと大きくなっていたに違いないと思う。ところがその自分たちの師匠が、実質的に社会を牛耳っていたユダヤ教の指導者たちの反感を買い、神を冒涜した、社会を混乱させたということで捕まり、十字架につけられて強盗と同じように処刑されてしまったのだ。
世の中を正すと思っていた師匠がつかまってしまい、自分たちも社会の反逆グループ、いわば非国民のグループということになってしまったわけだ。彼らは密かに逃げるしかなかった。立ち向かっていく力などとてもなかった。どうしてこんなことになってしまったのか、これからどうすればいいのか、弟子たちはそんな気分だったに違いないと思う。まさに絶望していたに違いない。弟子たちはイエスが捕まってしまったことでみんな逃げたと書かれている。
しかし聖書はそんな弟子たちが復活のイエスと出会い、元気になり、イエスこそキリスト、この世の救い主だと伝え始めた、と伝えている。
イエスがどのように復活させられたのか、よくは分からない。どんな形で復活させられたのかもよく分からない。聖書にもいろんなことが書かれている。復活のイエスが魚を食べたというような事が書かれていたり、閉め切っている家の中に入ってきたと書かれていたり、イエスだと気がついたら見えなくなったと書かれていたり、肉体をもってなのか、それとも霊みたいなのか、あるいは幻のようなものだったのか、よくは分からない。
イエスがどういう風に、どんな体で復活したのかはよく分からない。けれども弟子たちはその後元気になり、恐らく身の危険を感じて逃げていたのに、今度は命がけでイエスのことを伝えるようになったということ、そしてそうなったのは復活のイエスと出会ったからだと言っているということだ。
大事な人を亡くしたあと、その人が夢に出てくるということをよく聞く。夢でなくても、ふとそこにいるように感じることがあるとも聞く。それでなくても、話した言葉やしぐさなど、思い出は残された人の心の中にずっと生きているのだろうと思う。
弟子たちの心の中にイエスのいろんな思い出が詰まっていたと思う。イエスの十字架を目の当たりにして、絶望してどうやって生きていけばいいのか分からないようなことを経験し後に、彼等の心の中に生前のイエスの言葉や振る舞いが甦ってきたのではないかと思う。
イエスに付いてきなさいと言われてついて行っていた時には分からなかったイエスの言葉が、絶望を経験した後にはひしひしと分かってきたのではないかと思う。そうやってイエスの言葉を改めて噛みしめていった、その事によって弟子たちは元気になっていったのではないかと思う。
イエスの言葉によって元気にされていく、それこそが復活のイエスとの出会いだったのではないかと思う。
私たちは今、顔と顔を合わせるようにイエスと会うことはできないだろう。しかし私たちは聖書を通して、イエスの言葉を聞くことを通してイエスに出会うことができるのだと思う。イエスの言葉が私たちの心の中にあるとき、イエスは私たちの心の中に生きているようなものだ。私たちは心の中でイエスと出会うのだ。
思い出せ
婦人たちが墓に行ったとき、輝く衣を着た天使が、かつてイエスが言ったことを思い出せ、と言った。そして婦人たちは思い出した。婦人たちはイエスがかつて三日目に復活すると言ったことを思いだした。きっとそれだけではなくイエスが語ったいろいろなことやイエスの姿、イエスの行い、そんないろんなことを思い出したのだろうと思う。
イエスが捕まって処刑されてしまって、イエスの死のことで頭が一杯だったのだろう。殺されてしまった、殺されてしまった、ということしか考えられなかったのだろう。そのことで動転して遺体の処理をすることしか頭の中になかったのだろうと思う。
しかしここで天使に思い出せと言われたことでかつてのイエスの姿が婦人たちの心の中に甦ってきたのだろう。それはまさに婦人たちにとってのイエスとの新たな出会いと言ってもいいような出来事でもあったのだろう。
復活
今日は召天者記念の礼拝でもある。人は死んだ後どうなるのか、どこに行くのか。私たちには分からない。死とは何なのか、そして生きるとは何なのか、分かったようなつもりでいるがよく考えると分からないことだらけだ。死を前にして私たちは全く無力である。誰でも死ぬことはなんとなく分かっている。私たちの祖先たちもみんな死んでいる。得体の知れない闇が待ちかまえているような恐怖がある。
しかし私たちと神との関係は死で終わるものではないということをイエスは伝えてくれた。私たちの神は、生きることも死ぬことも含めて全てを支配している、そんな神なのだ。
すでに引退しているある牧師がこんなことを言ったそうだ。私は教会で葬儀がある時など、亡くなって天国に行ったときには、先に亡くなった家族に会えますよ、親しかった方にも会えますよと説教してきた。でもそれは間違っていた。天国に行けばイエス様に会えますよ、と語るべきだった。
死んだ後どうなるかよくわからない、けれどもそこも神の支配しているところ、イエスの支配しているところ、そこでイエスに会うことができる、先に亡くなった方たちもきっとそんな希望をもって生き、そして亡くなったことだろう。
召天者記念礼拝だが、この方たちが天国へ行けるようにお祈りするための礼拝ではない。そんな必要はない。そうではなく、召天者の方たちが信じた神を一緒に見上げるため、召天者の方たちが聞いたイエスの言葉を一緒に聞くために集まっている。
私たちはまだ死を迎えていない。そして生きているうちにはいろんなことがある。真っ暗闇に包まれるようなこともある。絶望するようなこともある。そして死が私たちを待っている。
しかし、すべてが暗闇に包まれてしまうような、そんな時にも、絶望することはない、私がついている、私があなたと共にいる、死を通り抜けてきた、死をも支配している私が一緒にいる、イエスは私たちにもそう語りかけてくれている。
先に召された方たちは、今もこのイエスの支配の中にいる、イエスと共にいる。私たちもやがてそこに行く、その希望を持って生きていきたいと思う。