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礼拝メッセージより
「祈り」 2012年4月1日
聖書:使徒言行録 12章1-17節
ヘロデ
今日のヘロデは、ヘロデ・アグリッパ。イエス誕生の時に占星術の学者を招き幼児を殺したヘロデ大王の孫になる。ローマ帝国の公認のもと、ユダヤ地方を統治していた。
彼はファリサイ派に迎合して、当時はまだユダヤ教の一分派であった初期キリスト教のグループを迫害した、と書かれていた。もともとはローマで教育を受けたそうだが、ユダヤ教の律法と慣習に注意を払っていたために国民に人気があったそうだ。
そしてさらに正統派のユダヤ人の歓心を買うために、律法を軽んじているけしからんグループと見られていたキリスト教のグループを迫害した。手始めに12使徒の一人である、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、と書いてあるように、自分の人気取りのためにそれに続いてペトロを逮捕した。
牢
その時期が除酵祭とか過越祭と書かれている。過越の祭はニサンの月の14日に始まって、この日とそれに続く7日間は種入れぬパンを食べ、その週を除酵祭と呼んでいた。その週には裁判も処刑もしてはならなかったので、ヘロデもその週が終わるのを待って、ペトロも処刑するつもりだったのだろう。
ヘロデはペトロを4人一組の兵士4組に監視させたと書かれている。注解書によると、各組が3時間交代で見張っていて、たいていは囚人の右手と監視人の左手を鎖でつなぐそうだけれども、6節に、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた、とあるように、ペトロの場合はは両手を両側にいる監視人とつながれて、残りの二人が戸口を見張るという厳重な警戒をされていたらしい。
もし罪のある者が逃げた時には、警備にあたった者は、その囚人の受けるのと同じ罪を受けねばならないと律法にあるそうだ。そこで18節にあるように、ペトロが逃亡したのち、ヘロデは番兵たちを取り調べた上で死刑にするように命じている。
救出
ペトロが逮捕されたことから、教会ではペトロのために熱心な祈りがささげられた、そして主の天使がペトロを救出したと書かれている。
どこかの牧師の説教を見ていたら、ペトロは明日処刑されるのが分かっているのに神に全てを委ねて平安の内にぐっすり眠っていたとか、教会の人達も心から神に信頼して祈っていた、と書いてあった。
そうじゃないと思う。そもそも明日処刑だとは書かれていない。ペトロが何も心配しないで眠っていたなんてことも書かれてはいない。ペトロは牢を出て通りを進んで行き天使が離れ去った後に、我に返ったと書かれている。その間の救出劇は夢見心地だったのか。ぐっすり眠りすぎて通りまできてやっと目が覚めたということなんだろうか。そんなことあるんだろうか。
実際もうすぐ処刑される何て境遇にあったことはないので何とも言えないけれど、処刑されても平気なんてことはないだろうと思う。イエスだって十字架の前には苦しんで祈っていた。
教会の人も、神に全幅の信頼を置いて祈っていたわけではないだろう。ペトロが牢から出て来てマリアの家にいった時に、ペトロがやってきたと告げる女中に対して、あなたは気が変になっている、それはペトロを守る天使だろう、と言ったと書かれている。助けられるように祈っていたんだろうけれど、その通りになると確信を持っているわけではなく、というか殆ど信じていないようだ。
祈り
心から信じることができない、本当にそうなるかどうか分からない、でも祈るしかない、この時の教会の人たちはそんな思いで祈っていたのではないかと思う。必ず神が助けてくれると確信を持って祈っていたわけではないだろう。だからこそ、ペトロが帰ってきたという知らせに対して、あんたは気が変になっている、と言ったのだろう。
でも心から信じることができなくても、本当に聞いてくれるのだろうかという思いでいっぱいでも、祈ることができるというなんだろうと思う。むしろそれこそが祈りなのではないかと思う。
祈りってなんだろうといつも思っている。何で祈るのだろう。祈ったらその通りになるならば、あれを与えて下さい、これをこうして下さいと祈れば、その通りにしてくれるならば、いくらでも祈るのにと思う。でも現実にはそうなるわけではない。祈っても祈ってもその通りにはなかなかならない。
祈りは神を変えることではなく、自分を変えることだと聞いたことがあるけれど、その通りなのかもしれないと思う。
不安と恐れに押しつぶされそうな時、もし祈ることを知らなければどうなるのだろうと思う。時々、私は無宗教ですという人がいるけれど、そんな人はそんな時どうしているんだろうか、祈らないでも耐えられるんだろうか、そしたらすごいなと思う。
危機に直面するとき、そこで祈ることが出来るのは幸せなことだと思う。祈る相手がいること、というか祈る相手を持っているということはとても幸せなことだと思う。その時になって、誰に祈ったらいいのか、と探し求めるというのは大変なことだろうなと思う。
ペトロがどのように救出されたのかはよく分からないけれど、多分天から羽根の生えた天使が降りてきた訳ではないだろうと思う。教会の関係者か、あるいは牢屋の関係者か、誰かが助けたんだろうと思う。その誰かが主の天使なんだろうと思う。
ではどうしてヤコブは殺されてしまったのか、と思うけれど理由は分からない。ヤコブのためには教会は祈らなかったのか、なんてことも言いたくなる。
教会ではペトロのために熱心に祈ったとあるけれど、その割りにはあまり信じていない。むしろ教会はヤコブを殺され、ペトロが捕らえられるという危機に直面して、これからどうなるのかという恐れと不安のなかで、それでも祈ることでそこに立ち続けることが出来たのではないかと思う。
なんだか一所懸命に神の服の裾を握りしめていたような気がしている。祈りとはそんな風に神に繋がること、神との繋がりを思い出すことなんだろう。