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礼拝メッセージより
「軌道修正」 2012年3月25日
聖書:使徒言行録 10章9-23節前半
軌道修正
軌道を修正するって事は大変なことだ。宇宙に関するテレビをよく見る。昔アポロ13号が月に向かっているときに酸素タンクが爆発して、それでも何とか地球に帰還させたという番組を見たことがある。その時にエンジンをどの向きのエンジンを何秒間噴射したらいいかということを検討するのに長い時間をかけて地球でシミュレーションして、その仕方を確認して決めてたと言っていた。車の軌道を直すのはハンドルを回せばすむけれど、宇宙船だとエンジンを噴射する度にその反動で船の向きも変わってしまうということだった。宇宙では軌道を修正するのはそんなに大変なんだと思った。
汚れた物
今日の箇所では言わばペトロの軌道修正の話しが出て来ている。ペトロは神に幻を見せられて一気に考えを変えたのかと思っていたけれど、必ずしもそうではないようだ。
ユダヤ人たちは汚れたものを食べてはいけないと教えられてきて、そのことを当たり前に守ってきたのだろう。その根拠となることが、レビ記11章に書かれている。
11:1 主はモーセとアロンにこう仰せになった。11:2 イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、11:3 ひづめが分かれ、完全に割れ
ており、しかも反すうするものである。11:4 従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:5 岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:6 野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:7 いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。11:8 これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。
この後は水中の生き物や鳥やいろいろな動物についても何が汚れているかということが書かれている。何を食べていいか、何を食べてはいけないかということが書かれている。
ペトロもこれが神からの命令であり、それを守ることが神を信じることであると思って生きてきたことだろう。ところがそれを食べろと幻で告げられてしまう。それはペトロにとってはとてもショックなことだったに違いない。そう簡単に、そうですかと言えることではなかった。
ペトロも、幻の中で、屠って食べなさいという声に対して3度拒否したと書かれている。天からの声に対しても3度拒否する、それほど人は自分の生き方を変えることが難しい生き物であるのだろう。
ペトロも幻を見せられて、そしてそんなことはできない、と3度反論してやっと変えられた。神によってほとんど無理矢理に軌道修正を迫られているといった感じなのだろう。
しかしこれは、後々出てくるように食べ物のことではなくて、人間的なことであった。ユダヤ人たちは、神が用いられるのはユダヤ人のみであり、他の国民は全く神の恵みと特権には与れないと信じていたいそうだ。そして徹底的に厳格なユダヤ人は、異邦人と全く接触しないし、律法を守らないユダヤ人とも接触しなかったそうだ。律法を守らない人を客に迎えることも、自分がその人の客になることもなかったそうだ。
10章6節にあるように、ペトロがこの幻を見たときには、革なめし職人シモンという人の客になっていて、その人の家の屋上にいたようだ。革なめしという仕事は、動物の死体に触れることから汚れているということになっていた。そのため厳格なユダヤ人たちは革なめしの人の客になるなんてことはなかったそうだ。シモンの家が海岸にあるというのも、みんなから疎外されているために町外れの海辺に住んでいたのかもしれない。
ペトロがそのシモンの客になっていりということは、ペトロがすでに厳格なユダヤ人たちの考えに縛られないでいるということのようだ。
どうしてペトロがそう思うようになったのかということははっきりとは分からないけれども、それは結局はイエスの話しを聞き、イエスの生き様を見てきたからこそなんだろうと思う。
イエスは律法主義と対決してきた。律法の文言を振りかざして人を傷つけたり、傷ついている者や弱っている者たちを、律法の文言によって切り捨てる者たちと対決してきた。そんなイエスの生き様を見て、ペトロは少しずつ自分の考えが変えられてきたのだろうと思う。
その上での今回の幻だったのだろう。それまで大事にしていた、昔から聞かされ教えられてきた律法主義的な生き方でいいのかどうか、ペトロはずっと迷っていたのではないかと思う。悩んでいたのではないかと思う。それに対する一つの答が今日の幻だったのではないかと思う。
こんなお告げがあれば、迷うことなく行動できていいのにと思っていた。いつもこういうふうに、これはこうしなさいと教えてくれたらいいのにと思っていた。こうやって幻を見たと文字にされると、まるで目の前にスクリーンが登場して、映画でも見るような感じがするけれど、多分そういうものとは違うのだろうと思う。今までは、ペトロは幻によって一気に考えを覆えされたように思っていた。幻とは神が有無を言わせず圧倒的な力で、これはこうなのだ、こうするのだと襲ってくるようなものかと思っていた。だからこそ幻を見せてくれたらと期待してきたわけだけれど、どうもそうではないような気がしてきている。
ペトロはユダヤ人の習慣をきれいさっぱりやめているわけではない。12時に祈るというのもユダヤ人たちの習慣である。けれども革なめしシモンの家に客となっているということからもわかるように、すでに厳格なユダヤ人たちの考えからはもうだいぶ逸れてきているわけだ。イエスの生き様を知ることで少しずつユダヤ教からそれてきていたのだろうと思うけれど、自分の行動が本当にそれでいいのか、間違って以内のか、そんな不安も大きかったのではないかと思う。
生まれてきたこれを守りなさいと言われていることを破ることはなかなか大変なことだ。マインドコントロールされている人に、もう自由なんだ、きにしなくて良い、と言っても、理屈では分かっていても気持ちがなかなかついてこないなんてことを聞く。それと同じように、小さい頃からずっと言われ続けてきたことを修正しろと言われてもなかなかできない。本当にいいんだろうかと思う恐れや不安はどうしても出てくるのだと思う。
そんな時に見た幻なんだろうと思う。ペトロが、小さい頃から教えられたことと、イエスの生き様と、いろんなことを考えて考えて悩んで悩んだ末の幻だったんだろうと思う。
人生の軌道修正って簡単なものではないだろう。聖書に書いてあるから、イエスが言われているからと言ってもそう簡単には変えられない。悩みつつ、考えつつ、少しずつ修正していくしかないのだろう。そしてそうやって少しずつ変わっていくものこそが本物でもあるのだと思う。
そして私たちの人生を修正させる原動力はイエスの言葉であり、イエスの生き様なのだと思う。
人間って結局は誰かの声を聞いて生きていると思う。ペトロが律法を聞かされてきたように、私たちも、こういう風に生きなきゃだめです、これを大事にしてしないといけません、こうしなさい、これはだめですといろいろと聞かされている。私たちは親を始め色んな人の声を聞いて生きている。そんなことではだめだ、そんなお前はだめだ、と思うことも多いけれど、それもいつか聞いた誰かの声のようだ。もちろんそれによって大切なことをいっぱい教えられている。でもそんな誰かの声に縛られ苦しめられることもある。
そんな私たちを苦しめる誰かの声に変わって神の声を、イエスの声を聞いていくこと、それが私たちの軌道修正なのだろう。そうそう簡単なことではないのだろう。駄目だ、駄目だという声が迫ってくる。でも少しずつ少しずつ、じっくりとイエスの声を聞いていきたいと思う。
それでもお前が大事だ、そんなお前が大切だ、イエスのそんな声が聞こえませんか。