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礼拝メッセージより
「やりたくない」 2012年3月18日
聖書:使徒言行録 9章1-19節前半
信念
サウロはユダヤ名、パウロはローマ名。律法に熱心な、熱血の男、サウロ。
サウロは、ヘレニズム文化の栄えたキリキアのタルソという都市で生まれ育ったディアスポラ(離散)のユダヤ人だった。そして彼は、ローマの市民権を持っていた(16:37)。そこで彼は、自分を専らローマ名で呼んでいた。しかし一方、彼はイスラエルの民としての誇りを持ち(フィリピ3:5)、パリサイ派の厳格な教育を受けた。そして律法には落ち度のない者だった(フィリピ3:6)。
その頃、イエスという男を信奉し、律法を軽視する集団が広まっていたので、律法に熱心なサウロにとっては、許しておけなかった。「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き」なんてあるように、サウロはキリスト教徒迫害を上の人から命じられてしたのではなく、自らの熱心から、自らの信念から進んでしていたようだ。
7章54節以下のところを見ると、ステファノが処刑される時にそこにいて、証人達の着物の監視をしていたことが書かれてあり、8章3節には「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」と書かれている。
召し
そんなサウロにイエスが現れた。そして彼を自分のことを伝えるための器だ、なんてことを言う。
突然の召しだ。戦時中を舞台にするドラマにはよく、召集令状が届いて突然軍隊に行くことになるという話しが出てくるが、それと似ている。サウロにとっては全く予期しない出来事だったように見える。そしてそれは全く理解できない召集という気もする。イエスは自分を、自分を信じる民を迫害している者を、自分を伝える者として召す。
どうしてそんな者を神は選ぶのか。なんとも理解しがたいことに思える。何もそんな奴にさせなくてもいいじゃないか。パウロの何がどうだから選ばれたのかはわからないが、とにかくイエス自身がサウロを選んだということだ。
この時にどんなことが起こったのかよくわからない。サウロに同行していた者は声は聞こえても姿は見えなかった、と書かれている。サウロ自身もその後目が見えなくなってしまっている。
天からの光に照らされるというのもすごい出来事だが、サウロの心の中に強烈な光が射し込んだようだ。自分が、こいつは偽物だ偽キリストだと思って、そう信じて迫害していたイエスが実は本当のキリストだったということを突きつけられた。
ということは今までやってきたことがとんでもない間違いであったということを突きつけられたということだ。おまえらは間違っている、そんなことを続けることは許さない、続けるなら処刑する、といっていた自分の方が間違っていたと知らされたのだ。
そこに人生を掛けていたであろうサウロにとっては、人生を根底から建て直さねばならないような事態だ。三日間飲み食いしなかった、とある。
サウロは三日間何をどう考えたのだろうか。きっと俺の人生は一体何だったのか、今までしてきたことは何だったのかと考えたのだろう。それまで間違っていたということを受け止めることは相当に大変なことだったに違いないと思う。正しい人間を捕まえて痛めつけてきた、ひどい目に遭わせ処刑してきた。
言わばそれまでの人生を否定するようなことなのだ。あの声はイエスの声だったのか、何かの間違いだったのではないか、でもあれが本当にイエスの声ならば従うしかない、しかし一緒に教会を迫害していた者たちに対しても、そして教会の人達に対しても、今さらどんな顔をして生きていけばいいのか、と思ったんじゃないだろうか。そんないろんな思いに悩み苦しむ3日間だったんじゃないかと思う。
アナニア
アナニアはそんなサウロの所へ行けという命令を受ける。彼も困ったことだろう。サウロのところへ行って祈ってやれなんて言われて。実際、あいつはとんでもない奴ですよ、と答えている。でも彼はサウロのところへ出かけていく。
実はこの人こそが偉いのかもしれない。神がその人を選んだのだ、と言われたことに対して忠実に従っている。自分たちの命を狙っている者の所へ自分から出かけていくわけだ。へたをすると捕まって殺されるかもしれないのに。
神が選んだ、神が立てた、ということだけでその相手を大事にするなんてことはなかなかできない。神に立てられていると言われても、あの人はここがだめだ、あそこがだめだ、何もしてくれない、なんて思う。そんな目で見ることが多い。神が選んだということよりも、その人の資質とか人間性の方に目を向けることが多い。そしてこの人は神に選ばれるべき人間ではない、と決めつけてしまうことが多いような気がする。
アナニアもサウロがとても神に選ばれた人間とは思えなかったようだ。けれどもアナニアは、どうしてあんな奴が、という思いを持ちつつ、神がサウロの所へ行けと言われた言葉に従った。自分の知っているサウロの人間性とか資質とか経歴とかいうようなものよりも、神の命令、神の選びを優先したということだろう。
やりたくない
神の命令だから、と言ってもそうそう簡単に、そうですかと言えないことが多いのかもしれない。聖書を見ても、神の命令に対してもしつこく抵抗する人がいっぱい登場する。やりたくないよと言った人たちばかりだ。
でもそんなやりたくないという思いを抱えつつ神の命令に従っていった、というか、やりたくないという思いと闘いつつ神の命令に従っていっているような気がする。
サウロの3日間も、自分の人生をまるっきり方向転換するような大変な3日間だったのだろう。自分の人生を否定するようなことはしたくない、という思いとの闘いでもあったのだろうと思う。
アナニアも、言わば宿敵サウロのために祈れと言われ、そんなことしたくない、と口にもしている。
神の命令だからといっても、はいそうですか、とはなかなか行かないのが現実のようだ。いろんな闘いがある。自分自身との闘いがある。
献金することだって闘いだ。このお金があれば、なんて思う。今までの献金額を計算したこともあった。
神に従うことは結構闘いなんだろうなと思う。でもそこにはきっと喜びがあるんだらろうと思う。アナニアに祈ってもらうことがサウロはどれほど嬉しかっただろうかと思う。そしてサウロが福音を伝えることで、どれほど多くの人達が喜んだことだろうか。
アナニア
何故アナニアに祈るように命令したのだろうか。もう一度イエスが現れて、サウロの目を見えるようにするのではなく、わざわざアナニアに行かせたのはなぜなのだろう。
サウロに助けられることを経験させたのではないか。共に生きていく仲間がいることを分からせるためだったのではないかと思う。
神の命令は、私たちが共に生きていくための命令でもあるような気がする。
いつもやりたくないという思いが強い。そんなことできないという思いが強い。でももう少しじっくりと神様の声を聞いていかないといけないなと思っている。