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礼拝メッセージより
「共に生きる」 2012年3月11日
聖書:使徒言行録 4章32節-5章11節
感謝状
小学校のとき夏は毎日のようにフェリー乗り場の横の海水浴場で泳いでいた。ある日そこが埋め立てられて鉄工所か何かになっている。何でそんなことしたのか。大事な海水浴場を。子どもたちはみんな怒っていた。その海水浴場で1年生の時、目の前に溺れている子どもがいた。でもまだその頃は泳げなかったので向うにいる兄貴に「溺れている」と言った。中学生や高校生たちが助けた。溺れていた子は保育園児だった。後で小学校の朝礼のときに感謝状かなにかをもらった。中学生も高校生も何か貰ったと聞いた。
何となくそれ以来人に誉められる事をしようと思うようになってきたと思ってきた。人の顔色ばかり見て何か不都合が起きないように、面倒な事が起きないように、人に悪く言われないように、と懸命になってきた。賞状なんかくれない方が良かったんじゃないか、なんてことも思ったりした。でも原因は賞状なんかじゃなくてもっともっと違うところにあるように思うようになってきた。
本当はしたい訳でもないのに、それをすると誉められるからと思ってすること、それをしないとなると面倒なことになると思ってする事が多い。自分がそれをしたいからする、ということがなかなか出来ない。とてもやっかいなことだ。
本当の自分を出せない、ありのままでいられない、それなりのふるまいをしてしまうことが多い。愚痴も文句も言えない、分かったようななんでもないような顔ばかりしていることが多い。
終末
最初の教会は、土地や家を持っている人が皆、それを売って代金を使徒のところへ持ち寄り、それを分配した、と書かれている。
なぜそんなことをしたのだろうか。
最初の教会では、すぐに終末がくると思っていたようだ。パウロの手紙でも、初期に書かれた手紙だと、もうすぐ終末がやってくるのだからそれまで耐え忍んで、というようなことが書かれているのに、後期になってくると、そういう言葉はなくなってきて、教会の問題にどう対処するかというようなことが中心となっていくそうだ。
教会でも時々、何月何日に終末がやってくるという話しを始めるところが出て来て、ニュースになったりするけれども、あと何日でこの世の生活が終わってしまうとなれば、土地も家も持っていても意味がなくなる。
だから処分して、それを全部献金してみんなで分けたということなのだろうか。しかし財産を持つ意味がなくなったから処分したと言うことだったら、それって大して立派なことじゃないな。
ごまかし
その後アナニアと妻のサフィラの話が出てくるが、この夫婦は土地を売ったけれどもその代金を誤魔化して使徒の所へ持ってきたようだ。代金の一部を持ってきたということなので、一部だけなのにこれが全額ですと言っということだろうか。ということはその他は残しておいたと言うことで、そうすると残しておくことに意味があったわけだ。ということは、この夫婦は終末はそれほど近くはないと思っていたか、近くはないかもしれないと思っていたということなんだろうと思う。あるいは何かの間違いで終末が来なかったらという心配があったのだろうか。
でも本当に心配ならば、土地をそもそも土地を売らなければ良かったわけで、土地は売ったけれども誤魔化したという複雑な心境だったようだ。ということは、みんなが自分のものを売って献げているのに、自分だけしないのはまずいというような気持ちがあったということかなと思う。
ペトロが、売らないでおけばあなたのものだったし、売ってもその代金は自分の思いどおりになったではないかと言っている。売るも売らないも自由だし、売った代金をどうするかも自由なのだ、という訳だ。教会の基本的な姿勢として持ち物を売って全部献げるようにしなさいと言っていたわけではないということなんだろう。
なのに誤魔化したということは、全額献金する事が美徳だと考えられていたのか。それこそが立派な信仰者のすることと思っていたのか。どうしてもりっぱな信仰者の顔をしていないといけなかったのか。誤魔化してまで献金する、というのは結構辛い事だったのではないかと思う。正直に言うことの方がよっぽど楽なのに、なんて思う。
うそをついていいかっこうをしたって喜びなんてないだろうに。逆に本当は献げたくもないのに献げたときにも多分喜びはないだろうけど。
二人がどうして死んでしまったのかは分からない。ペトロが言っているように、聖霊を欺いた、神を欺いたからなのだろうか。
献金を誤魔化すというようなことは神を欺くことと言えば確かにその通りなのだろう。しかしそれはまた自分自身を欺くことでもあると思う。
聖書教育に加藤諦三さんの文章が載っていた。
「感謝されるときには、ふたつあると思う。ひとつは自分のほうから何かをしてあげたくて、してあげた。その結果、相手から感謝をされた。感謝されることを求めたのではなく、自ら欲して何かをしてあげた。その結果として感謝されることがある。
もうひとつは、相手から好かれたい、感謝されたいという期待をもって、何かをしてあげた。相手の家の門の前のごみを拾ってあげた。それはごみを拾っているところを相手に見せて、感謝されようとしているのである。」
でも子供の時の感謝状を欲しいという気持ちと同じような気持ちがやっぱりある。すごくある。そのためにいい格好をしてしまいがちだ。何をするにしても、そのことで自分に対してどれほど感謝しているか、どれほど賞賛されるか、そんな見方をしている。
結局は自分のことばかり見ているのだろう。誰かを見つめて、誰かのためにではなく、自分がどれほど立派にできているか、自分がどれほど評価されるか、そんな風に自分のことばかり見ているようだ。
アナニアとサフィラが土地を売ったのも、そして誤魔化したのも、結局は自分たちの評価を気にしてのことだったということなんだろう。貧しい人たちや困っている人たちのためにではなく、自分たちの評価を上げるために、あるいは下げないためにしたことだったのだろうと思う。
献金というものもそんなものなんだろうと思う。教会を支えるため、困難な誰かを助けるため、というようなことであって、自分の満足のためではないのだろう。十分の一という目安はあるけれど、教会がどれほど赤字でも、自分は十分の一をしているからもうそれで充分、と思っているとしたら、それはちょっと違うのではないかと思う。困っている相手がいるのに、もうこれで合格、と思っているとしたらちょっと違うのではないかと思う。
自分のため、自分の満足のためではなく、相手のため、誰かのために自分の持っているものを献げる、それが大事なんじゃないかと思う。
私たちが一緒に生きていく、その相手が見えているのか、その誰かが見えているのか、そこが問題なんだろうと思う。
その誰かと共に生きること、助け合いながら分け合いながら共に生きること、そこに喜びがあるのだと思う。
この前のテレビで、人は相手から奪うよりも、分けるときの方が喜びが大きい生き物と言っていた。献げることは、喜びなのだ。これは喜びの人生を生きるようにという勧めでもあるのだと思う。