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礼拝メッセージより
「金や銀はないが」 2012年3月4日
聖書:使徒言行録 3章1-10節
いやし
昔教会に「癒しに興味がある人がいるんですが、そちらの教会は癒しをしてますか。どこか癒しをしている教会を知りませんか。」という電話があった。
足の不自由な男
神殿に生まれながら足が不自由な男がいた。彼は「美しい門」のそばに置いてもらっていた。まるで荷物かなにかのような言い方。実際そのような待遇を受けていたのかもしれない。お荷物のような扱いをされていたのかも。多分ひとりの人間として見られてはいなかった。
神殿で施しを受けることが日課だったのだろうか。通り過ぎる人たちから小銭をもらって生きていたのだろうか。
多くの人の訪れる礼拝の場所にはどこでも物乞いも姿を見せる。施しを与えることは、殊にユダヤ教では祈りと共に敬虔な行為とされているそうだ。
ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時間に神殿に上っていった。
9時、12時、3時が祈りの時間だったらしい。使徒たちもユダヤ教の祈りの時間を守っていた。教会は当初はユダヤ教と対決する姿勢は持ってはいなかったようだ。
そのペトロとヨハネが境内に入ろうとすると、足の不自由な男が施しを求めた。他の人たちはそのまま通り過ぎるか、あるいは小銭を出すか、どちらにしても黙ってすぐその場からいなくなるであろうがペトロたちは立ち止まって男に語り掛けた。
見なさい
ペトロは「私たちを見なさい」と言った。施しを乞うているんだから見えてるはずなのに、なんでそんなこと言ったんだろうかと思ってたら、絵を見ていると、この男の人は足しか見えていなかったのかもしれないと思った。男は何かもらえると思って二人を見つめた、と書いてあるけれども、そこで初めて視線が合ったんじゃないかと思う。
ただお金を置いていくだけならば視線が合うことはあまりないだろう。でもペトロは「見なさい」と言う事で視線を合わせたのだろう。ペトロはただ施しをする側とされる側という関係ではなく、人間的な関係を持とうとしたのではないかと思う。お互いの間を、ただお金が行き来する関係ではなく、心が行き来する関係を持とうとしているのではないか。
男の前を通りすぎる人たちにとって、この男はひとりの人間というよりも社会のお荷物という気持ちがあったのではないかと思う。施しをするにしても、自分がよい事をして満足するための相手というような存在でしかなかったのだろう。逆にこの男にとっても、目の前を通り過ぎる人たちはただ自分に施しをしてくれる相手、金や物を運んでくる道具でしかなかったのかもしれない。
しかしペトロはそんな関係ではない、人間と人間としての関係を持とうとしているようだ。
イエスの名によって
ペトロは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言い、右手を取って彼を立ち上がらせた。
ペテロは、神殿に礼拝に来たのだから、少し位のお金なら持っていただろう。しかし、この男にとって一番必要なものはお金ではないと分かったのだろう。
人々は、彼を一人の人とは扱わずに、門の前に「置かれている」物のように扱っていた。そしてこの男自身も、自分はお荷物なんだと思ったいたんじゃないかと思う。今更人間らしく生きるなんてこともできない、そんなことよりお金でも物でも、それさえもらえればいいと思っていたんじゃないかと思う。毎日をただ施しを受けるだけという境遇が、どんどん自分自身を惨めにしていって、もう自分の人生どうでもいい、というようなあきらめの気持ちだったんじゃないかと思う。
環境が人間に与える影響の実験かなにかで、学生に刑務所の看守と囚人の役割を演じさせたところ、何日かすると看守役はだんだん狂暴になり、囚人役はだんだんと卑屈になっていってしまい、当初予定していた日数まで実験できなかった、と聞いた事がある。それを演じているだけでそうなってしまうのだそうだ。
まして実際に苦しい境遇で、生まれてから何十年もの間まともな人間として接してもらっていないとすれば、いつもお荷物のように見られていたとすれば、この男の気持ちはどんなだったのだろうか。
ペトロは彼にとって一番大事なものを与えようとしたんだと思う。人間として堂々と自信を持って生きるために必要なものをペトロは与えた。神の前における真の人間として回復されることを願った。目の前の男にとって必要なものを与えた。
いやし
男は不自由だった足が癒され、「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し」たと書いてある。
不自由だった足が自由になったんだから嬉しいに決まっている。でもきっとそれだけではなく、自分を苦しめていた重荷から解放された喜びと、それまで自分の人生をあきらめていた、その心に希望が生まれたこと、それこそが嬉しかったのではないかと思う。
足が不自由である事から、あいつは神の祝福からもれているとか、親か誰かが悪い事をしたその罪のせいで立てなくなっている、とか言われ、また自分でもそう思って苦しんできたのだろう。そんな社会や周りの人間から受ける苦しみから解放されたという喜びがあるから彼は躍り上がって喜んでいるのではないか。自分はみんなのお荷物だ、邪魔物だと思ってきた、でもそうではない、ひとりの人間なんだという喜びがあったのだろう。
そしてまた、イエス・キリストの名により立ち上がったということは、自分にも神の力は働く、決して神の祝福からもれていたわけではない、という証明でもあり、その喜びもあったのではないか。
立てなかった者が立てるようになる、それはすごい事だ。そんなことがあったら。僕もそんなことができたらいいなあ、と思う。教会に来れば癒されます、と言えばもっともっと大勢の人が教会に来るかもしれない。教会の宣伝もしやすくなるかもしれない。イエス・キリストの名によって立ち上がれ、とか見えるようになれ、聞こえるようになれ、と祈ってそうなったらいいなあ、なんて思う。そんなことが出来るようになったらきっといつも威張って、施しを与えてやろうか、というような目でみんなを見るようになりそうでもある。
この男がどうして立ちあがれるようになったのか、それはよくわからない。今も同じようなことがおこるのかどうかもよくわからない。でもこの男にとっては自分の足で立てるようになる事と同時に、人間として扱われることが大事な事だったのではないか。かつてはお荷物でしかなかったと思っていたし、多くの人からそう扱われていた。自分でもそう思っていた、けれど実はそうではなかった。足が立たない自分を人間として見つめる者がいた、そのことこそが彼にとってのいやしだったのではないか。自分はお荷物ではない、ということに気付いたこと、それこそが彼にとって一番大事ないやしだったのかもしれない。
私たちには、イエス・キリストの名によって歩け、とは言えない。言ってもそれで立ち上がるなんてことはないだろう。
でも、自分は何も出来ない、ただの社会のお荷物でしかない、と思っている人に対して、人間と人間として接する、あなたはお荷物ではない、あなたはひとりの人間なんだ、あなたは神から愛されている人間なんだ、と伝えることが出来るなら、それはその人にとっての救いであり癒しでもあるのではないか。私たちは、外見的に病気を治し障害をなくすような力は持っていない。けれども私たちの聞いている、預かっている神の言葉は、内面的な、人間的な霊的な癒しをもたらす力を持っているのだと思う。
多くの宗教が癒しを強調する。ときどき牧師館にチラシもはいってくる。どこそこにお参りにいったところこんな病気が治った、医者から駄目といわれているような病気も治った、といった体験談が載っているのもある。病気を治すことが本物の宗教だ、と言っているみたいだ。
確かに病気が治る事はすばらしいことだ。だが私たちには病気は治せない。しかし教会は人を救い、生かす言葉がある。魂を救う言葉がある。その言葉を伝えていこう。
金も銀も医学の知識もない、しかし私たちは神の言葉を持っている。それをあなたにあげよう、と言っていきたい。