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礼拝メッセージより
「石が叫ぶ」 2012年2月26日
聖書:ルカによる福音書 19章28-40節
子ろば
ベツレヘムの家畜小屋の中でイエスは生まれた。そこはたぶん馬小屋ではなく、そこには馬はいなかったであろう。たぶん牛やろばがいたと思われる。馬は戦いに使うこともできる動物。そんなことからも馬は権力者が使う動物で権力者のもの、権力者のところにいる動物だったらしい。そして庶民が使っていた動物はろばだったようだ。
ろばの子
「主がご入り用なのです」で納得したのだろうか。
前もって借りるという了解があったのか、あるいは「主がご入り用なのです」というのが、イエスが必要としているという合言葉であったということか。
ここで使いの者がこの子ろばをほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ子ろばをほどくのか」と言った、と書かれている。この子ろばはイエスが乗るためのものであって一頭だけだろう。なのにこの子ろばには持ち主たちがいる。複数の持ち主があるということになるようだ。きっと貧しい人たちが共同でやっと飼っているという子ろばなのだろう。マルコによる福音書11章の並行箇所を見ると、「主がお入り用なのです。すぐお返しになります」と言ったようなので、すぐに返してもらえたのだろうとおもうけれど。
しかしイエスが必要と言うことであるならば、ということで貸し出したということなんだろう。
エルサレム入城
イエスはそんなろばに乗ってエルサレムに入っていった。普通新しく権力者になるものは馬に乗って都へ入っていった。戦争に勝って、相手を征服したときには、馬に乗って相手の都へ入っていった。馬は権力の象徴でもあった。また軍事力でもあった。旧約聖書の箴言21:31に「戦いの日のために馬が備えられるが、救いは主による」という言葉がある。戦うためには、普通人間は馬の準備をする。支配者はこんなに強いんだということ、またこんなに軍事力があるんだということを見せつけるためにも馬でやってくる。しかしイエスが準備したものはろばだった。
「まだ、誰も乗ったことのない子ろば」がイエスのためにとっておかれた乗り物だった。ろばは戦いのためにはなんの役にも立たない。ろばは人間が生きていくために役に立つ動物。日常の生活のために役に立つ動物だった。かっこいい仕事ではなく、いわば雑用ばかりさせられるような動物だったようだ。その雑用係の動物に乗ってイエスはエルサレムへと入っていった。
イエスを乗せたからといって、それで突然、特別なろばになるわけではない。何かの箔がつくわけでもない。またいつもの雑用が待っている。そんなろばをイエスは用いられた。
奉仕
子ろばはイエスのために働いた。けれどもそれは特別大変なことをしたわけではない。他の誰にもできないことをしたわけではない。人を乗せて、きっとゆっくりゆっくり歩いたのだろう、それは他のろばでもできることだったに違いない。けれども、誰でもできることを主は用いられた。
教会で奉仕しましょう、と言ってもなかなかしない。私は何もできません、奉仕なんてとてもとても、と言われる。信仰深い人は、私には奉仕する賜物がありません、なんて言う。
奉仕とは、主がお入り用なのです、と言われることに応えていくことなんだろう。子ろばがしたことは他のどのろばでも出来るような、人を乗せて歩くということだった。しかしそうすることが「主がお入り用なのです」といわれることなのだ。
主がお入り用である事柄とは、私たちが雑用と思えるような小さな当たり前の事柄なのかもしれない。その気になれば誰にでもできることなのかもしれない。しかしそれを主は必要である、と言われるのだ。
だから「わたしにはとてもできない」と思うような大変なことだけが主のご用ではないのだ。ほとんどの場合、はこんなことは誰にだってできるというようなことこそが主のご用なのかもしれない。主の役に立つかどうかは、自分にできるかどうかでなくて、主がお入り用なのですと言われたときに従うのか従わないかの違いなのだろう。
讃美
人々は自分の服を道に敷いた。そして「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」と神を讃美したと書かれている。マルコの福音書では「ホサナ」と言ったと書かれている。ホサナとは「お助け下さい」、「今、救ってください」と言うような意味があったそうだが、その当時には王を迎える言葉としての決まり文句のようになっていたらしい。
群衆の叫びは、イスラエルの王の到来を待ち望む叫び、かつての強国、ダビデの国をもう一度、という気持ちもあったのかもしれないけれども、何よりも自分たちを苦しめているものから解放して欲しい、この苦しい現状から救って欲しいという願いを込めての叫びだったようだ。
ゼカリヤ書9:9 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」
イエスはこの箇所を意識して子ろばに乗ってエルサレムに入っていったのではないかと思う。旧約聖書に約束された王としてイエスはエルサレムにやってきた。そして群衆もそのことを知っていてイエスを歓呼の声をあげて迎え入れたということなのかもしれない。
石が叫ぶ
ファリサイ派のある人々がイエスに「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った、と書かれている。群衆が熱狂的になることで、ローマ帝国の役人に目を付けられてしまうから、もっと静かにさせないとまずいですよ、ということだったのではないか、と書いてある注解書があった。静かに穏便にしておかないと面倒なことになりますよ、と言うのは確かにもっともだ。
でもイエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」と言った。もちろん石が叫ぶことはないだろうけれども、この人たちの叫びを誰も止めることはできないのだ、この叫びは現状を何とかしてほしい、救って欲しいという魂の叫びなのだ、だから止めることなどできないのだ、と言いたいのではないか、またそんな叫びを止めてはいけないのだ、という気持ちもあったのではないかと思う。
そしてまたイエスが石が叫ぶと言ったのは、多分に誤解している民ではあっても、苦しい人生を生きていて、ひたすら救いを求めている、その民の叫びを全面的に認めて、その民の側に徹底的に立つ、苦しんでいる者の味方になる、たとえそのことで自分の身に危険が及んでもそれさえも受け止める、というイエスの決意の現れでもあるのだと思う。
イエスはそんな気持ちで、そんな決意を持って私たちと今も共にいてくれているのだろう。