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礼拝メッセージより



「感謝と讃美」 2012年2月12日 
聖書:ルカによる福音書 17章11-19節

 口語訳ではらい病と訳していた。そしてレビ記13章から14章を見ると、皮膚病についての対応が書かれている。祭司が皮膚病であるかどうかを見て、皮膚病であれば「あなたは汚れている」と言って隔離する、皮膚病ではないと判断されるときは「あなたは清い」と言うなんてことが書かれている。
 伝染して病気が広がっていくことがないようにと隔離するという風になっていたんだろうと思う。

 今日登場する、重い皮膚病を患っている十人もそうやって隔離されていたんだろう。そして離れたところから声を張り上げて「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言ったのだろう。
 そこでイエスは、「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と行って、そこへ行く途中に清くされたけれど、イエスのもとに帰ってきたのはサマリア人ひとりだけだった、という話しだ。

 サマリア人のことをユダヤ人は見下していた。かつては同じ民族であったが、イスラエルが北と南に別れた後に、サマリアのある北の国をアッシリアという国が占領し、アッシリアは東の方の民族を移住させてしまった。その結果、民は混血となり、宗教も東の宗教とイスラエル古来の信仰とが結びついてしまった。南の国のユダヤ人たちはそんなことからサマリア人を軽蔑し、サマリア人の信仰を異端として見ていたようだ。
 けれどもこの時イエスのもとに帰ってきて、感謝し神を讃美したのは一人のサマリア人だけだったというのだ。

 十人誰もが、この病気さえ治れば、という思いは相当強かっただろうと思う。社会から隔絶されて、みんなから病気持ちという目で見られてきたのだろう。だからこそ、憐れんでくれと大声を出して叫んだのだ。
 だから病気が癒されたことを知った時はとても嬉しかったに違いないと思う。感謝の気持ちは当然あっただろうと思う。助けられた時には普通感謝するだろう。

 ほの前ハッピーフライトという映画を見た。羽田からホノルルへ向けて出発した飛行機が、機体が損傷して羽田へ引き返し、丁度台風が通り過ぎる時で風に流されながらどうにか無事に着陸した、というような映画を見た。着陸して滑走路に無事に止まった時には、客はみんなが拍手していたし、乗務員に感謝していた。危険な状態から無事に戻してくれたという気持ちがあれば拍手したくもなるし、感謝したくもなるだろうと思う。自分がもしその立場になったもやっぱり拍手し感謝するだろうと思う。

 どうして残りの9人はイエスのもとへ帰ってこなかったのだろうか。イエスが癒してくれた、イエスが清くしてくれたという気持ちがあればイエスに感謝しにくる気がするのだが。

 イエスが癒してくれたと思っていないのだろうか。イエスは十人に対して「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言っただけだ。そうするとイエスが癒してくれたとは思わなくて、いつの間にか治っていたと思ったか。でもイエスが行けと言って、それを実行してる途中に治るわけだから、そうしたら、言われたとおりしたら治りましたって喜んで報告くらいはしそうな気がする。

 もしかしたらそもそも病気が治ることに対して感謝する気持ちがなかったのだろうかと思う。ただ普通の人間に戻っただけ、という気持ちだったのだろうか。本来思い皮膚病になることが間違いであって、それが普通に戻っただけという気持ちだったのだろうか。そもそも神がそんな病気にしたのが間違いであって、なんでこんなことにしたのかと神を恨んでいたのだろうか。やっと正常にしやがったということで、恨みがなくなったということなんだろうか。そうしたらわざわざ戻ってきて感謝する気にもならないかなとは思う。

 いやでもやっぱり、一般的に当たり前の状態に戻っただけとしても、苦しみを経験した後では、当たり前の状態を感謝するようになると思うのだけど。

 結局どうして戻ってこなかったのかという理由がよく分からないけれど、その戻ってこなかったということをイエスは責めているんだろうか。他の九人はどこにいるのか、と言っているけれど、けしからんとは言っていない。言ってはいないけれど言いたい気持ちだったのだろうか。

 実はイエスは9人を責めるのではなく、寂しい気持ちだったのではないのかと思うようになってきた。病気が治って祭司にも清いと認められたことを一緒に喜びたかったのではないかと思えてきた。

 ずっとこの箇所は、感謝しに帰ってくるべきなのに帰ってこないユダヤ人は駄目な奴等で、ほかの九人はどこにいるのか、というイエスの発言はそんなユダヤ人を責めているというか叱っているのだ、ちゃんとイエスに感謝しなければいけません、感謝する人間にならないといけません、という教訓だと思っていた。

 でもどうも今回違うような気がしてきた。ほかの九人はどこにいるのか、というのは九人を責めているのではなく、九人と一緒に喜びたかったということなんじゃないかと思うようになった。サマリア人に言った「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」という言葉をほかの九人にも伝えたかったという気持ちなのではないかと思うようになってきた。

 イエスは、病気を癒して、社会に復帰できるようにすればそれでおしまいではなく、そのことを一緒に喜びたい、という気持ちが強かったんじゃないか、だからこそ、他の九人はどこにいるのか、と言ったんじゃないかと思うようになってきた。

 聖書には、「共に喜び、共に泣きなさい」なんて言葉がある。共に喜びたい、共に泣きたいと一番に思っているのはイエスなのではないかと思う。そうしようとして待ち構えているのではないかと思う。

 私はお前と一緒に喜びたい、一緒に笑いたい、一緒に泣きたい、一緒に悩みたい、一緒に嘆きたい、イエスは私たちにそう言われているのではないだろうか。

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