前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「独り占め」 2012年2月5日
聖書:ルカによる福音書 16章19-31節
お金
最近facebookがもうすぐ株式を上場するとかニュースがあって、そこの最高経営責任者はまだ20代だけれど、来年から年収を1ドルする、でも資産は何千億になるとか、そんな話しを聞いた。よくわからない話しで、資産は桁が違いすぎて覚えられない。
なんだかすごい金持ちが世の中にはいるんだ、どうやったらそんな金持ちになれるんだろうかと思って、自分の無能さを嘆いている。
今日の話しの中にも金持ちが登場するけれど、やっぱり金持ちにはあこがれてしまう。
金に執着するファリサイ派
ルカによる福音書では16章はずっとお金に関する話しが続いている。14節には、金に執着するファリサイ派の人々が出てくる。そして今日の話しもどうやらそのファリサイ派の人々に向けて話されたもののようだ。
ファリサイ派の人たちは富は神からの祝福だと自慢していたそうだ。このたとえの金持ちもそんな気持ちだったということだろう。そしてその富は自分のもの、自分だけのものと思っていたらしい。自分の家の門の外にはラザロが残飯を待っていることを知っていながらそのままでいたようだ。ラザロという名前も知っていたけれどことさら助けることもなかったようだ。
自分は神から祝福された者、ラザロは祝福されなかった者という気持ちだったのではないか。そのラザロを助けようという気持ちもさらさらなかったようだ。ラザロは食卓から落ちるものでも欲しいと思っていたようだが、金持ちはラザロがそれを待っているなんてことを想像もしなかったというなんだろう。
当時はナイフもフォークもナプキンもなくて、食べ物は手で食べたそうだが、金持ちはナプキンの代わりに厚切りのパンで手を拭いて、一度手を拭いたパンはそのまま捨てていたそうだ。食卓から落ちる物とはそういうもののことだろうと書いていた注解書があった。
兄弟愛
死後、金持ちは陰府に行って自分の兄弟たちのことを心配する。このままだと自分と同じ目に合ってしまう。こんなところに来ないようにラザロを遣わしてくれ、とアブラハムにお願いする。しかしアブラハムは、モーセと預言者がいるのだからそこから知ることができる、という。しかしそれくらいでは自分の兄弟たちは悔い改めはしない、と金持ちは訴え、死んだ者を復活させて、つまりラザロを生き返らせて兄弟たちに知らせてくれ、と言う。しかしアブラハムはモーセと預言者に耳を傾けないなら、死者の中から生き返る者がいたとしても言うことは聞かないだろう、という。
モーセと預言者とは聖書のことを指している。つまりどんな奇跡的なことが起こったとしても聖書に聞かないなら悔い改めることはないだろう、という。もうすでに聖書があるのだからというのだ。
聖書から聞くことをしないならば、どんな奇跡があったとしてもその人の生き方を変えることはない、神を見上げるようにはならない、ということのようだ。
愛の無さ
金持ちにとっては門前のラザロはほとんど別世界の人間のようなものだ。自分とは関わりのない、関わりたくない人間だったのではないか。あるいはほとんど眼中になかったんじゃないかと思う。
陰府にいった時に自分の兄弟のことを心配する気持ちがあった金持ちだが、門前にいるラザロのことを心配することはなかった。
イエスは、それは神に祝福された生き方ではなく、ただ金に執着しているだけだ、と言っているのだろう。
神を愛す
レビ記
19:9 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。
19:10 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。
イザヤ書
58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
旧約聖書には、こういうふうに弱い立場にある人の親切に保護しなければならない、という事が書かれている。
ファリサイ派の人々はこの聖書の言葉はよく知っていたはずだ。「隣人を愛せよ」という言葉もよく知っていた。しかし、金持ちにとっての隣人とは自分の兄弟ではあっても、ラザロではなかったのだろう。よきサマリア人の話しにあったように、隣人とは誰なのかということが問題だ。
ファリサイ派も神を愛し神に従おうとしていたのだろう。しかしその神を見つけられずにいたのではないか。神に仕えて心から豊かな人生を送りたいという願いは誰にもあるだろうと思う。けれどもお金をいっぱい持ってしまうと、それを守らないといけないというか、守りたい、減らしたくない、という思いが強くなってしまうのだろう。神に祝福されているのだという気持ちがあると余計にそれを守ろうと思うような気がする。
でもお金はそれに執着して独り占めして守るものではない、とイエスは言っているようだ。
でも
そうは言われてもなかなかそうもいかない。やっぱりいろんなものを独り占めしていたい。誰かを助けるとか、分け与えるなんてなかなかできない。
遊び暮らせる程裕福になればできるかも、なんて思うのが関の山だ。こんなに大変な暮らしをしているのに、誰かを助けるなんてとてもとてもと思う。お金がないと暮らしていけない、とお金に目が奪われている。
イエスは「受けるよりも与える方がさいわいである」と言った。
あれを与えて下さい、これを与えて下さい、とよく祈る。いっぱい受けるとうれしい。でもイエスは与える方がもっとうれしいことなんだと言った。なんでも独り占めしたくなる。けれど分ける方が幸いなんだ、とイエスは言っているようだ。
そうは言われてもなかなかできない。やってみなよ、与えてみなよ、とイエスは言われているような気がする。さいわいになるかどうかやってみなさい、と言われているのではないか。