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礼拝メッセージより
「必要なもの」 2012年1月22日
聖書:ルカによる福音書 10章38-42節
マルタとマリア
今日の聖書にマルタとマリアという姉妹が出てくる。ルカによる福音書では彼女たちが住んでいたのは「ある村」としか書かれていないが、ヨハネによる福音書では彼女たちはベタニヤというエルサレムに近いところに住んでいたと書かれている。そして彼女たちにはラザロという一人の兄弟が居て、彼はイエスに生き返らされたことが書かれている。イエスはこの3人を良く知っていたようで、ヨハネの福音書には「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」とある。イエスは彼らとかなり親しくしていたようだ。
この二人の姉妹の態度は対照的だ。姉のマルタは出来るかぎりのもてなしをしようとして忙しく働いている。「一行が」とあるように、この時お客はイエス一人ではなく何人かの同伴者もいたようだ。
その人たちをもてなすためにマルタはとても忙しくしていたようだ。彼女は自分がこんなに忙しくしているのに、ちっとも手伝おうとしないで、イエスのそばでじっと話を聞いている妹のことでいらいらしてくる。
マルタはイエスにむかって、妹に手伝いをするように言ってくれと頼む。マルタはマリアに聞いてもらっていることを喜んでいるイエスの態度も気に入らなかったのかも知れない。
これに対しイエスはマルタの期待したことをしてくれない。イエスはマリアにむかって姉の手伝いをするようにとは言わなかった。それどころか、逆にマルタのほうをたしなめる。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
どっち
ここからしばしば教会ではマルタとマリアとどちらが優れているか、御言葉を聞くことと誰かをもてなすというようないろんな奉仕とどちらが大切なのかというような解釈をしてきた。ぼくもそうだと思っていた。マリアの様にイエスの話しを熱心に聞くことこそ第一なのだ、もてなしなんてのはそれにくらべればたいしたことではない、そっちのほうに気を取られて熱心に聞いている者の邪魔をするなんてのはけしからん。そんな意味だと思っていた。
もちろん聞くこと、イエスさまに聞くことはとても大事なことでそれを抜きにしては何も始まらない。ではもてなしはそれに比べればどうでもいいことだとイエスさまが言ったのかというと、どうもそうではないらしい。
弟子
ではイエスはなぜマルタをたしなめたのか。それはマリアがイエスさまの足もとに座って聞いていることに対して腹を立てている、そのことに対してだということのようだ。
39節に「マリアは主の足もとに座って」という言葉がある。この、足もとに座る、という言葉は弟子となるというような意味合いがあるそうだ。マリアが主の足もとに座るということはイエスさまの弟子となりイエスさまの言葉を聞いていた、ということになるらしい。
当時の一般的な社会での風習として、女性には客を接待する役割が振り当てられていた。それを怠って、女性が男のように弟子としてふるまうなどということはけしからんことだった。つまり当時の常識としてはマリアに対するマルタの非難は至極尤もなことを言ったまでだったようだ。
非常識
ところがイエスは女性が弟子としてふるまうという非常識なふるまいを完全に認めている。当時男と女の間にあった越えられない境界線を踏み破って弟子として振る舞ったマリアに対して、マリアはよいものを選んだ、と言っている。
今でも女性がいろいろなところに進出することに対して、非常識、あばずれ、身勝手、はしたない、可愛くない、などと言われるようなことがある。女性が差別を無くそうとしていろんな活動をしていると必ずといっていいほど女だてらに何だ、女は家庭に引っ込んでいればいい、などと悪態を吐く者がいる。しかしイエスはそのような非常識をもろ手を挙げて賛成し高く評価しる。
マルタは女らしいと考えられている行動をとらないマリアのことをどうにかしてくれ、とイエスさまにくってかかったのだろう。しかしマリアにとってはそれこそが彼女に必要なことだったのだろう。
男は外で働き、女は家で家事をすべきだ、というような見えないしがらみがある。そのしがらみからそれることに対してよく思わないことも多いように思う。女性が外で働いて男性が主夫をするというような家庭があると、あそこの家庭はおかしい、変だ、やめろ、などと思ったり、自分たちがそうしていると、誰かから変な夫婦だと言われそうに思ったりする。
家事なんてやりたくない、外で働きたいという女性だって実際にいるし、外で働くよりも家事をしている方が好きだという男性もいるわけで、それはおかしいとか変だとか言うのは、そんな人たちを見えない鎖で縛りつけて苦しめているのかもしれない。
この時マリアがどんな状況だったのか、マリアにとってイエスの話しを聞くことがどれほど大切だったのかはよく分からない。しかしマリアにとっては何としてもイエスの話しを聞かないではいられない状況だったのだろうと思う。女だてらにと言われようと、何としても必要だったのだろう。
だからこそイエスはよいものを選んだんだ、と言われたのではないかと思う。世間体とか周りの非難とかが心配になりそうな状況の中で、でも自分にとって本当に必要なものを選んだから、イエスは良い方を選んだ、と言ったのではないかと思う。
必要
イエスはマルタに対して、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と語った。
イエスを家に迎え入れたのもマルタだった。人をもてなすことが得意で、何でも出来る人だったのかもしれないと思う。この時もイエスに対して出来る限りのもてなしをしようと思っていたのではないかと思う。
でもいつしか、あれもこれもしなければいけないのだ、という気持ちが強くなって、なかなか思うようにいかないことでいらいらしてきたのではないかと思う。
イエスが厚いもてなしを要求したわけでもなく、期待していたわけでもないだろう。
この時必要なこととは、イエスが来たことを喜ぶことだったのではないかと思う。その喜びを表すことで十分だったのだろう。マリアにとってはイエスの話しを聞くことがうれしいことであった、だからそれを取り上げてはいけないと言われたのだろう。
イエスは、あれもこれもしなければいけないのに、と心を乱すのではなく、喜びを持って自分の話しを聞くマリアを、一行をもてなすことで喜びをもって支えて欲しい、と願っているのではないかと思う。
もう心を乱さないで欲しい、あなたは自分が必要と思うことを十分にやってくれた、十分もてなしてくれた、それはすばらしいことだ、だからそのことを私と一緒に喜んで欲しい、今マリアは聞くことが必要なのだ、だから聞かせてやって欲しい、イエスはそう言いたいのではないかと想像する。
今イエスは私たちにとって何が必要なことだと言われているのだろうか。聞くことだろうか、もてなすことだろうか。あるいはもっと違うことだろうか。 イエスが必要だと言われることをやっていくこと、そのことを喜ぶことをイエスは何よりも求めておられるのではないかと思う。