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礼拝メッセージより
「できそこない」 2012年1月15日
聖書:ルカによる福音書 10章25-37節
えいえんのいのち
律法の専門家がイエスを試みようとして質問をした。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」受け継ぐ、とは相続するという意味の言葉だそうだ。
それに対してイエスは逆に律法の専門家に聞き返す。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」律法の専門家に律法には何と書いてあるか、なんて聞くんだからおもしろい。つまりあなたはそんなことは知っているではないか、知っているはずではないか、知っていてなぜ聞いてきたのか、といったところだろうか。
律法の専門家は旧約聖書の申命記6章5節のところを引用して答える。「6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」ここはユダヤ人たちが一日に2回唱える「シェマの祈り」の中にも入っているものだそうだ。そして続けてレビ記19章18節、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」敬虔なユダヤ人たちにとっては、神と隣人が愛されるところにおいて律法は満たされると考えられており、そのことを誰もが知っていた。
だからイエスも「正しい答えだ」と同意している。そしてイエスはそれだけでは終わらず、続けて「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と語った。問題はそれを実行するかどうかだということだろう。ただ筆記試験で答えるだけだとしたらこの律法の専門家の答えは満点だろう。けれども実際には答えを知っているかどうかというよりも、それを実行しているかどうかということだろう。偉そうなことを言っても実行していないとしたら何の意味もない。
もし律法の専門家が、永遠の命を引き継ぐために何をしたらいいのかが分からなくて、あるいは知っているけれどもそれで大丈夫なのか自信がなくて質問したのなら、この答えで安心して帰ったかもしれない。しかし彼はどうやら知りたいために聞いたのではなかったらしい。そうではなくイエスを試すために聞いたらしくて、だからここで「あーそうですか」と簡単に引き下がらない。そこで律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか」と切り返す。
よいサマリアじん
ここでイエスが語ったのが「よきサマリアびと」なんて言われ方をしている話しである。
エルサレムからエリコへ降っていく途中に追いはぎにあい半殺しにされた人を、祭司やレビ人は知らん顔をして通ったが、サマリア人は助けた、という話しだ。
さいしとレビびと
エルサレムからエリコまでは約27kmで5,6時間かかるそうだ。この道は悪名高い道で、誰かが強盗に襲われることがしばしばあったらしい。
エリコは祭司の町だった。祭司はエルサレム神殿でささげものをするという務めを終えて帰宅する途中、そしてレビ人も同じように神殿での務めを終えての帰り道ということになる。
祭司もレビ人もユダヤ教社会では尊敬され尊重される人たちだったそうだ。しかし彼らは半殺しの目にあっている者を遠巻きに見て通り過ぎてしまう。
なぜ彼らは傷ついている人に関わらなかったのか。理由は語られていない。それなりの理由を持って彼らは傷ついたものと関わりを持たないことにしたのだろう。祭司やレビ人は神殿に関わる仕事をしていたので特別に清くしていないといけなかった。死体に触れると汚れるので、死にかけている人に関わって死んでしまったら汚れてしまう、だから関わらない方が安全だ、と考えたのかもしれない。
サマリアじん
そこへサマリア人が通りかかり、彼は半殺しの目に遭っているその人を助けて介抱し、宿屋までも連れて行き、お金も払った、それがイエスの語ったたとえであった。
サマリア人のことをユダヤ人は見下していた。かつては同じ民族であったが、イスラエルが北と南に別れた後に、サマリアのある北の国をアッシリアという国が占領し、アッシリアは東の方の民族を移住させてしまった。その結果、民は混血となり、宗教も東の宗教とイスラエル古来の信仰とが結びついてしまった。南の国のユダヤ人たちはそんなことからサマリア人を軽蔑し、サマリア人の信仰を異端として見ていたようだ。
そんなサマリア人が自分を見下していた側の人間を助けたというのだ。同じユダヤ民族の代表でもあるような祭司やレビ人が見捨てた人を軽蔑していたサマリア人が助けたと。
なにをしたら
そしてこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人となったと思うか、とイエスは聞いた。律法の専門家が、その人を助けた人です、と答えるとイエスは、行って、あなたも同じようにしなさい、と言ったという。
そうは言われてもなかなかできないよなと思う。実際こんなことほとんどの人はこんなことできないと思う。やれたらすごいなと思うけど、そうとう難しい。だったらイエスは出来もしないようなことをしなさいと言っているのだろうか。
この「行って、あなたも同じようにしなさい」というのは何に対する答かというと、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」というものだった。つまり、自分の力で永遠の命を受け継ごうというのであれば、このサマリア人のようになりなさい、と言っているのだと思う。
とてもできそうもないことをしなさい、それをしなければ永遠の命を受け継ぐことはできないのだ、とイエスは言いたかったのだろうか。
ルカ18:18以下に金持ちの議員の話が出てくる。同じように永遠の命を引き継ぐためには何をすればいいのかと聞いている。イエスが、あなたは律法を知っているではないかと言うと、この議員は、律法は子どもの時から守っていると答えた。するとイエスは、持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい、と答えた。「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである」と書いてある。
そんなこと出来ないよ、と思う。半殺しにされている人の面倒を最後まで見るとか、全財産を売って施す、そんな普通でとても出来そうにないことをしないと神の国を引き継ぐことはできないのだろうか。それができないお前達は駄目なのだ、とイエスは言いたかったのだろうか。
この質問をした二人とも、そのために何をすればいいのか、と聞いている。自分が何かをすることで永遠の命を引き継ごうとしている。それに対してイエスは、何かをすることで永遠の命を引き継ごうとするのならば完全にならないといけないと言っているような気がする。
というか、私はこんなに立派にやってきました、と言いいたいのならば、このサマリア人のようになってから言いなさい、全財産を施してから言いなさい、と言われているのではないか。
実はイエスは、永遠の命は何かをすることで引き継ぐものではなく、ただ受けることなのだと言いたいのではないかと思う。永遠の命はただ神の憐れみによって与えられるものなのだ、全くふさわしくないのに与えられる恵みなのだ、自分が立派なことをして、或いは立派な人間になって手に入れるものではないのだ、と言いたいのではないか。
昔どこかの牧師が、罪人とはできそこないということだ、と言っていた。そして教会で偉そうなことを言っている人に、あなた信仰告白で自分は罪人だと言ったじゃないの、と言ったなんて話しを聞いたことがある。
今日の箇所も、自分はできそこないなのだということをしっかりと自覚しなさい、ということなんだろうと思う。できそこないなのに赦されているということを分かっていなさいということだろう。
誰もがいろんな問題を抱えて、いろんな悩みを抱えて生きている。それなのに、人の悩みや人の愚痴を聞くとついついご立派な決まり文句を言ってしまいがちだ。
人生とはそんなものだ、気にするなとか、これはこうしなければ駄目よ、なんてことを軽く言ってしまいがちだ。その人の苦しみを分かろうともしないくせに、何でも分かったかのようなことを言ってしまいがちだ。
教会から人を遠ざけているのは私たち自身なのかもしれません。多分そうなのだろう。そして教会から人を遠ざけている人間であることを自分自身で認めて自覚していくことが大事なのだと思う。
自分はできそこないなのだ、なのに愛され赦されている、そこにしっかり立っていなさい、と言われているのではないかと思う。